九尾の狐

 古代中国は殷(いん)王朝の皇帝・紂王(ちゅうおう)の宮中に、姐己(だっき)という女性がいた。 姐己は紂王の寵愛を一身に受け、先の皇后を追い落として紂王の妃となった。 ところがそのとたん姐己は莫大な浪費を始め、残虐な方法で無実の人々を処刑して万人を苦しめ、国を滅亡へと導いていく。
 数年後、姐己の正体は九尾の狐であることが発覚。 この時、軍師として太公望が登場するらしい。正体を見破られた九尾の狐はいずこかへと飛び去る。
 次に九尾の狐は古代インドのマガタ国に、これも暴君として知られる斑足王の妃として登場し、国を滅ぼそうと企てる。 さらにその次は再び中国に戻り、周の幽王の寵姫となった。

 こうして三王朝を次々と滅亡の危機へと追い込んでいったわけだが、世界史的にみると、殷王朝は紀元前2000年紀前半〜紀元前11世紀頃の、実在が分かっている中国最古の王朝である。 紀元前11世紀(一説では紀元前1027年)、周の武王が殷の紂王を討ち、滅ぼされる。取って代わった周は、第12代幽王の時代、紀元前770年(または771年)に西方からやってきた異民族の犬戎(けんじゅう)に都を攻略され、幽王の子である平王が東の洛邑(らくゆう)に遷都した。 よってこれより前を西周、以後を東周と呼ぶ。滅亡したわけではないが、実力のない小国へと凋落したという。
 マガダ国は紀元前6世紀頃、ガンジス中流域に興った。 仏教経典に 「十六大国」 と記された国家群の一つだったが、最終的にこれらを統一。紀元前1世紀頃まで存続したとされる。 かなり長期間だが、この間もナンダ朝とかマウルヤ王朝とか幾つかの王朝の興亡が繰り返されたらしい。
 しかしですな、そうすると周の幽王の時代にはマガダ国はまだ(少なくとも歴史の表舞台には)登場していなかったような気が……。
 
 さて時は12世紀、遣唐使が帰国する折、一人の美しい少女を連れて帰る。(周の東遷は紀元前770年だから、およそ1900年も間があいてるのね。この間何してたんだろ?) ちなみに連れ帰ったのは、吉備真備(きびのまきび)だともいう。手塚治虫「火の鳥・鳳凰編」でも印象的な政治的悪役を演じた、実在の人物ですね。
 久寿(きゅうじゅ)元年(1145年)、少女は「玉藻の前」という名で鳥羽上皇(資料によっては近衛天皇)に取り立てられ、寵愛を一身に集めることになる。 ところが、天皇がなぜか次第にやつれていく。 そこで陰陽師の安倍泰成(あべのやすなり)が占った結果、玉藻の前が九尾の狐であることが発覚した。
 正体を現し飛び去っていった九尾の狐に対し、上総介広常、三浦介義純という二人の弓の名手が追撃を命じられ、下野国那須野(しもつけのくになすの)まで追い詰め、ついにこれを仕留めた。
 ところが、死した大狐は近づく生き物をことごとく殺す毒気を放つ石と化した(資料によっては、射止められそうになって石に化けた)。 これが今も栃木県那須郡那須町湯本に見られる「殺生石」である。 後に玄翁和尚(げんのうおしょう)が金槌で打ち砕き、ようやく九尾の狐の長い伝説は幕を閉じる。 ちなみに、金槌を 「げんのう」 とも呼ぶことがあるそうだが、この逸話に由来するのだという。

 元禄2年4月18日、松尾芭蕉は奥の細道紀行の途中にこの殺生石を訪れ、

石の香や 夏草あかく 露あつし

と詠んでいる。
 殺生石は昭和28年1月12日、史跡に指定された。 今でも火山活動の活発な場所では硫化水素などのガスが噴出したりしているから、殺生石伝説もこうした光景から生まれたのは間違いないだろう。
 ちなみに、星野之宣 「宗像教授伝奇考」 file.19〜20 「殺生石 前編・後編」 は、あの某教団を九尾の狐、原発を殺生石にだぶらせた怖い作品になっている。

冒頭の写真とはちょっと角度を変えています。
9本の尾がよく分かりますね。

 中国の歴史書や「日本書紀」などには、音をたてて空を翔ける流星のことを「天狗」(あまきつね)と呼んだ記述があるそうな。 これは天狗(てんぐ)の起源とも言えるかもしれないが、夜空を尾をたなびかせながら横切る流星や彗星は、9本の尾をたなびかせて飛ぶ狐の姿に通じるものがあるのではなかろうか。

 九尾の狐伝説は結構有名であちこちで触れられており、SFや伝奇ものに取り上げられることも多い。 藤田和日郎「うしおととら」にも登場するが、微妙に違う点もあるようだ。 この作品ではこんな設定になっている。

 この世がまだ形の定まらない混沌とした状態であった時、澄んだ清浄な気は上に昇って人間となり、濁った気は下に溜まってこの大妖怪となった。
 こうして生まれた九尾の狐は殷王朝、マガタ国、周王朝を経、遣唐使について日本へと渡ってくる。 人間と妖怪がともに手を組んで200年にも渡る戦いを繰り広げ、1160年、九尾の狐は人間と妖怪の共同戦線に敗れ去る。 ただし、逃げ延びた九尾の狐はあるところに逃げ込み、これが現代に重大な事件を引き起こすこととなる……。
 戦いの中心となった人間は、この作品では陰陽寮陰陽博士の安部泰近(あべのやすちか)となっている。


 狐は狸と並んで人を化かす代表格であるが、この九尾の狐は歴史上の国家を傾け、世界史を動かしてしまうのだから、これもまた凄まじい。
 現実の歴史ではこれらの国は異民族や新興国によって滅ぼされるわけで、九尾の狐もそうした 「侵略者」 を象徴的に表したものかもしれない。 しかし、その前にいずれも権力者が暴君となっているわけで、こうした為政者の愚行が侵略者を呼び込むことになったとも言えるだろう。
 果たして為政者の愚行を妖怪のせいにしてしまう責任転換なのか、それとも 「侵略者」 を呼び込むような愚行はいけません、という戒めの伝説なのか……。