バタフライ・エフェクト
 −アメリカ版 “のび太” は “ドラえもん” にどう決着を付けるのか?

 主人公エヴァンは幼少年期、いくつかの事件の肝心なところで記憶がなくなるという奇妙な体験をしていた。 だがその記憶を取り戻そうとする行為が、結果的に大切な人を失うという不幸を招いてしまう。
 ある時、エヴァンは7歳の頃からずっとつけ続けてきた日記を読むことで、その書かれた時へと時間を遡行してしまうこと、そして過去を改変できることを発見する。 そこで、不幸が起こる原因となった過去の事件の現場へと戻り、事件を回避してしまう。
 現代に戻ったエヴァンの人生ではその事件は起こっておらず、素晴らしいものとなっていた。 が、改変される前とは異なる別のトラブルが待ちかまえていた。
 不幸を回避しようと過去を改変し、現代へ戻ると、またそれとは別の不幸が発生する。 かくてエヴァンは何度も過去への遡行を繰り返すが……。 

*              *              *

 この映画、実は何と、ある女性と一緒に行ってきました(爆)
 って、んなこたぁおいといて……
 うーん、でもね、いささかデート向きな映画ではなかったです、ハイ……(泣)
 何しろエヴァンが過去を変えるたびに新たに生じる不幸というのが、シャレにならないぐらいひどく、あまりにイタイ。
 映画パンフレットをパラパラと斜め読みしていると、こんな文章もあった。
「主人公が歴史改変のたびに、とんでもない状況に陥っていく。 ほとんど 『不幸自慢』 の面白さである。 次に過去へ行くと、どんな不幸が主人公に降りかかるのか、不謹慎だがワクワクしてしまった」
 ひっでぇ……。 いくら虚構の人物だからって、他人の不幸がそんなに面白いんかいな。 誰ですか、こんなひでぇことを書くのは。
 ……そう思ってよくみたら、げげっ、日本のSF作家ではもっとも敬愛するお一人、梶尾真治先生の文章ではありませんか。 先生、そりゃないっすよ……。


「バタフライ効果 (エフェクト) 」 という言葉を初めて知ったのは、グレッグ・イーガン「順列都市」 というSFであった。 この作品はコンピュータへの人格コピーの話で、そうした行為が果たして 「永遠の命」 を得ることと言えるかどうか、その昔議論になった作品 (ちなみに私は否定派) なのだが、その点はまたいずれかの機会に譲るとして……
 同作品によると、「バタフライ効果」 とは1970年代に気象学者ローレンツが唱えたもので、例えば南米で蝶が一匹羽ばたけば、その影響で北米の台風の進路が変わってしまう、というものだそうである。
 何のことかというと、気象条件はそれだけ複雑で、ちょっとしたきっかけでも大きく変わってしまう、したがって気象の長期予報は事実上不可能、ということだそうだ。


 今回一緒に観に行った人と映画の話をしていた時、彼女が 「そういえば 『バタフライ・エフェクト』 という映画がある」 と言ったのが、この映画を知った最初でした。 何でも日記を読むことで自分の過去に遡る話だという。 それで私も上記の 「バタフライ効果」 を思い出し、「なるほど、おそらく過去のちょっとしたことで未来は大きく変わってしまう、未来は予測できない、ということやね」 と意見が一致して、一緒に観に行ったわけなんですが。
 映画を見終わった後、それぞれの悲劇的な時間軸も話題にできず、ふと思いついたポイント。
『ドラえもん』 なんかでもよく過去をいじったりするけど、ドラえもんやのび太が現代に戻ってくる時、現代がどう変わったかは分かってないじゃない。 でもこの映画では、変えられた過去に起因する歴史が、一瞬で記憶に流れ込んでくるところが視覚的にちゃんと描かれてるのがすごいよね」
(実際そこらへんが曖昧な時間SFも多いので、そこをきちんとしているのは確かにプラスポイントだと思う。 きちんとしなきゃ話がつながらないということもあるんだろうけど)
 その場はそれだけで終わったんだけど、翌日この会話を思い出し、だんだん思わぬ方向へ。


 主人公エヴァン、ガールフレンドのケイリー、トミー、レニー。
 「ドラえもん」 といえば……この四人組はのび太、しずか、ジャイアン、スネ夫とどこかしら通じないであろうか?
 いや、単なるイメージだけで実際には大きく違うので、相違点を並べて突っ込まれても困るんだけど (笑)
 「ドラえもん」 では、のび太がジャイアンやスネ夫にいじめられ、ドラえもんの便利な小道具によってそれをかわしたり仕返ししたりする。 しかしその小道具の欠点や使う側の問題で新たなトラブルが発生し、それがオチになっている。 それでも 「ドラえもん」 では大抵些細な日常ごとに限定されているので、笑いで済んでいるのだが……
 小道具 (すなわち本作では日記 − というか、日記を触媒とした特殊能力) を使う理由、そしてそれに起因する影響を、人の生死まで関わる人生そのものにまで拡大したものが、この映画ではないだろうか。


 ところで、エヴァンが時間遡行する先は、日記に書かれた時ならいつでも良いというわけでもないようだ。 一時的な記憶喪失を伴った事件の時に限られているようにも見える (ただし一番最後の改変をするため、日記以外の方法で遡行した場面もそうかどうかは分からなかった)。
 そうすると、もしかして小さい頃の記憶喪失とは、未来の自分がやってきて意識を乗っ取ってしまったからかもしれない。 ……とすれば、とんでもないことになる。 そもそもの不幸の始まりは過去の記憶喪失が一因なのだが、その原因が未来の自分だとすれば……あまりにも救われない。


 ラストは 「予想もつかない」 「切ないハッピーエンド」 といった評を見かけた。
 確かにこのラストは少々予想外だった。
 完璧な、100%満足できる人生などあり得ない。 ならば、こうするより他ない。 という結論も、分からなくはない。 この映画にどことなく教訓めいたものを感じる理由もそこにある。
 だがそれは、一種のあきらめでもある。 この作品のケースではそれで良いかも知れないが、現実とだぶらせるならば、「それで良いの?」 という感じもぬぐえない。確かにバッドエンドではないが、単純にハッピーエンドとも言い切れない。
 大それた話だが、もしも私がこのラストを考えたなら、たぶんこうしただろう。 ネタばれオッケーな方のみ反転表示させてどうぞ。
 最後の改変で、自分に起因する不幸にケイリーを近づけないため、幼い姿を借りたエヴァンはわざとケイリーに嫌われた。 そうしてケイリーをあきらめる道を選んだわけが、ラストで成人した二人がふとすれ違う。 もしも私だったら、この後過去の改変とはまったく関係なく、ごく自然と何かのきっかけで二人が出会う場面を入れて、ラストとしただろう。
 だが一方、見終わった後パンフレットをめくっていて、作家ロバート・ゲイルの 「ラストの味わいは、青春というものが終わる味わいだ」 という表題が目に留まった。
 この言葉で、ああいうラストの意図も何となく分かったような気がした。 つまり、幼少年期の不思議な体験も、ケイリーとの様々な出来事も、過去の改変騒動も、この映画で描かれたすべてのことが……要するに、過ぎ去った青春の一コマ、ということではなかろうか。 ラストへと至る最後の選択により、青春という名の過ぎさりし過去に訣別した、ということであろうか。 (ただし青春の訣別とするならば、エヴァンの母親の位置付けをどう解釈するか、ちょっと微妙な気もするが。)


「ドラえもん」 では時々未来へ行く話があったと思うが、私の知る限り、大人になったのび太とドラえもんが一緒にいる場面はなかった。
 おそらくのび太自身の人生のどこかで、大人になるまでにドラえもんとの別れがあったはずだ。 「ドラえもん」 という作品の中では、「のび太が大人になること」 イコール 「ドラえもんと別れること」 だと想像される。 そこが描かれないまま、作品開始から数十年が経過しても、のび太の人生は永遠の少年時代を繰り返している。
 ただしそれが悪いというわけではない。 良いとも悪いとも区別ができない、バッドエンドともハッピーエンドとも言い切れない 「バタフライ・エフェクト」 のようなもどかしさは、「ドラえもん」 にはふさわしくない。 あれはあれで良いのだ。(第6巻あたりで(結果的には一時的となった)ドラえもんとの別れがあったが、あれは名作だと思う)
 このもどかしさ、切なさは時間SFには結構多い。
「時をかける少女」 はワタクシ的に原作よりも映画が素晴らしいと感じる作品だが、そういえばこの作品のタイムリープも 「バタフライ・エフェクト」 とよく似ている。
 それはともかく、ラスト近くで老夫婦が 「ずっと二人だけなんですかねえ」 みたいなことをつぶやくシーンがある。 それはその通りなんだが、だからといってわざわざ強調しなくても、とここだけはあまり好きになれない。 「タイム・マシン」 でも似たようなことを感じたものである。
 一方で、時間SFの中でも 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 第3作や 「タイム・コップ」 は文句の付けようのないハッピーエンドであり、ワタクシ的に非常に気に入っている。
 

 話が大きくそれたが、これもバタフライ・エフェクトということで (ちょと違う)。
 この映画、「バタフライ・エフェクト」 と銘打つからには、ほんの些細なきっかけ (原因) から予想もつかないとんでもない変化 (結果) に至ることを想像してしまったけど、実はそれぞれの変えられた時間軸で起こったこと (結果) は、ある程度予測可能な範囲である。
 一方、本作で変えられる過去の出来事 (原因) は、決して蝶の羽ばたきに例えられるようなちょっとしたことではなく、 (個人の人生にとり) とんでもない大事件ばかりである。 したがって、変えられたそれぞれの人生 (結果) がその後大きく異なるのは当然であろう。 またその違いは、変えられた過去の時点と現代とが、何年も離れているというその時間的長さも一因であろう。 出発点でのほんのちょっとした開きが、長い距離を進むとはるかに離れてしまうようなものである。

 手塚治虫 「ブラックジャック」 の一編、「ある老婆の思い出」 (秋田文庫では第3巻収録)。 「ブラックジャック」 の中でも最も好きな作品の一つである。
 この中に、ブラックジャックのこんなセリフがある。

「私たち(医者)は星を動かすようなもんだ。星なんて、宇宙の中で決められた所で光ってんだろう? 人の一生だってそうさ……。ちゃんと運命にしたがって生まれて、死んでいくんだ……。もし、人の命を救ってその人の人生を変えたなら、もしかしたら歴史だって変わるかもしれないだろう?


 この 「バタフライ・エフェクト」 の中で描かれた変化にはスケール感はなかったが、映画が終わってからの登場人物たちの人生、あれからどんな人たちと出会い、どんなことを為していくのかを考えると、その時こそ 「バタフライ・エフェクト」 にふさわしい大きな変化が生じていただろう。 どうせならそのくらいのスケールも描いて欲しかったようにも思う。
 それにしても。
 普段の何気ない一言、ちょっとした動作が思いもかけない結果を引き起こすというのは誰でも経験するのではないだろうか。 これもいわば 「バタフライ・エフェクト」 の一種かも知れない。 そう思うと、日々の言動や行動にももっと気を付けよう、などと思ってしまう今日この頃である。

2005.05.31