ハウルの動く城 − 誰がための戦い?? −
2004年12月4日。いつもよく一緒に映画に行く友人と、
「ハウルの動く城」 を観に行くことにした。
13時頃、大阪・梅田のTOHOプレックスへ。
14時30分からの回には入れるかと思ったら、最後の20時5分の回以外はすべて売り切れ! 同じ梅田の三番街シネマに行ってみると、2ブロック以上にまたがる長蛇の列。
スタッフがマイクで叫んでいるところによると、今から並んでも16時45分の回に入れるかどうかも保証の限りではないという。
おいおい、そんなに話題になってたか……? と友人と顔を見合わせつつ、TOHOプレックスへ戻り、20時5分の席を押さえる。
この時点で、その回ですらすでに最後列と最前列付近しか残っていないという有様。
とにもかくにも、20時5分から最後列で鑑賞することとなった。
* * *
さて。
映像と音楽はとても良かったデスね。 「ラピュタ」
の空中戦艦 《ゴリアテ》 や 「ナウシカ」 の巨大な蟲たちを連想させる、独創的なメカもなかなか魅力的。
そういやハウルの城も、どことなくかの王蟲を思い出させる。
ハウルの声が何やら有名な人だったらしいけど、私は普段からストーリーにこだわるあまり声優とか俳優とかってほとんどチェックしてないので、すっかり忘れてました。
一緒に観に行った友人は声優とかやたらこだわるので、
(本来の声優ではなく) 芸能人である、というだけでいつも減点体制に入るのだけど、ワタクシ的には特に違和感もなく、まぁこんなものでしょう、と。
ソフィーとハウルが空を歩くシーンは、前半部分でいちばん素敵なシーンですな
(宮崎アニメは空にかかわるシーンが大抵ポイントになってるし)。
それにしても、ソフィーが荒地の魔女から魔法をかけられたのは、単にハウルに声をかけられたから、だけなのだろうか。
で、その魔法なんだが。
この魔法はいったいいつ解けたのだろうか?
(髪の色を見ると解け切っていないのか、あるいはその魔法とは別の理由で色が変わったのか?)
途中で時々若い姿に戻っているので、魔法が解けているのか一時的に弱まっているのか、あるいは見る人によっては魔法が解けた姿で見えるのか……前向きに何かやってる時は魔法が弱まるのかしらん、とも思ったが、それならもっと別のシーンでも戻っても良さそうなものだし。
見終わってから一つ、若い姿に戻るキーになりそうなものを思いついたが、見直してみないと自信がないので置いといて、と(^^;)
もしかすると − そもそも魔法は存在しなかったのではないか……そんな気もする。
まじないをソフィーが勝手にいじって変えた? ためにハウルの髪の色が変わってしまうシーンがある。
それにショックを受けてハウルがどろどろに溶けだしてしまうってのは何か今風やなぁ(笑)
で、それに対してソフィーが取った対策って……魔法使いでもないソフィーがああするだけで、元に戻るのかしらん? ということは、見た目の派手さはともかく、実質はそんな程度の変化でしかなかった、ということだろうか。
つまり……この世界での魔法ってのは、たとえ魔法使いでなくとも、本人や周りの人間の意識や都合でいろいろと変わっていくものなのではないだろうか。
俗っぽい解釈だが、現実でも、気持ちの持ちようで人は生き生きしたり老け込んだりする。
魔法はそれを極端に表しているに過ぎないのではないだろうか。
ただし、かかしのカブにまつわる魔法はこれに当てはまらないのだが……
(注・いくつかのサイトの感想文に、原作ではソフィーもある種の魔法使いとなっている? ととれる記述を見かけた。
仮にそうだとすると上記の解釈は当てはまらないのだが、原作を知らず映画という枠の中だけで考えると、こうとれるのである)
その 「かかしのカブ」、 とても分かりやすい気持ちのいいキャラだと思っていたのだが……ありゃりゃ、最後に意外な正体が現れました。
この正体はいくらなんでも唐突すぎるぞ、おい。
一回見ただけでは分からないところも多く、カルシファーとハウルの関係も今ひとつはっきり飲み込めなかった。
特に後半、ソフィーがカルシファーを引き上げて結果的に城を崩壊させ、その後でまたカルシファーに城を動かさすあたりはストーリー展開にいまいち整合性が感じられない。
その後ネット上で、いくつかの納得しうる解釈を拝読した。
しかし観ただけではそうかどうか分からないということは、作り手側に
「分からせよう」 という気持ちがないのではないかという気もする。
ストーリー重視派としては、少々引っかかりを感じる。
そんなこんなでそれなりに楽しみつつ観てきたわけだが、最後の1分間、私にとってこの作品の評価を決定付けた、最大の衝撃的場面が訪れた。
王宮に仕える、言うなれば体制側ともいえる、かなり格の高そうな魔法使い、サリマン。
ハウルを戦争に引き込もうとしたりいろいろ策を巡らせ、絶対悪ではないが、どちらかというと政治的悪役を演じる立場にある。
ラスト、サリマンはハウルたちのハッピーエンドな様子を見て、こう言ったのだ。
「しょうがないわね。 総理大臣と参謀長を呼びなさい。
こんなバカげた戦争はもうやめましょう」
……ちょっと待て! そのバカげた戦争を遂行してきたのは (少なくともその一人だったのは)
あんた自身じゃないのか!?
それまでは、良いところもツッコミどころもそれぞれあるけど、まぁこんなもんでしょー、と思って観てきたが、この最後のセリフに固まってしまった。
もちろん戦争が終わらないよりは終わる方がはるかに良い。
ならば、そんな一言で終わらせられる (ことを決められる)
ような戦争だったのなら、なぜもっと早く終わらせられなかったのか。
そもそも、一体何のための戦争だったのか。
確かに私はハッピーエンドが好きだし (バッドエンドだったら途中がどんなに良くても大幅減点対象やね)、強引さは別にしてこういうハッピーエンドも嫌いではない。
しかし。
このハッピーエンドだったら、ああいう大戦争は必要ないではないか。
ハウルが相対するのは、無数の人々を巻き込んで街を焼き尽くしていく、という点であまりにも現実的な戦争である必要はない。
魔法使いが行う戦争なのだから、もっと非現実的な
「戦い」 でも良かったのではないか。
断っておくが、だからハウルやソフィーに戦争そのものをなんとかせよ、とか言いたい訳ではない。
戦争から逃げることも、一つの権利であり立派な意思表現である。 「ハウルは弱虫のままでいい」 というソフィーの言葉は本作品の中でももっとも共感できるセリフの一つである。
前半で戦争にちょっかいを出すハウルを別にすれば、ハウルやソフィーの戦争に対するスタンスは充分納得できる。
彼らにとっては 「誰がための戦い」 かは分かるのだが、その他の人物や作品世界全体としては
「誰がための戦い」 なのかさっぱり分からないのだ。
サリマンはおそらく 「ナウシカ」 のクシャナ殿下、
「もののけ姫」 のエボシ御前などにも通じ得たキャラクターではないだろうか
(彼女らに比べると扱いは低く、描き込み不足は否めないが)。
もし、かりに。 かなり極端な想定だが、クシャナ殿下やエボシ御前が
「こんなバカげたことはもうやめましょう」
と、それまでの自分の行動をあっさり否定したとしたら……。
立場によっては喜ぶ人もいるだろうが、ついていった部下や巻き込まれた人々は到底納得できまい。
彼女らの行動は、良くも悪くもそれだけのものを背負っているのだ。
本作のサリマンも、画面上には描かれていないだけで、そうしたものを背負う立場にある人間ではなかったのだろうか。
逆に、もしも国家の命運を左右するほどの人物がそうしたものを背負っていないとすれば、その国家はすでに滅亡の途上にある
(銀英伝調 ^^;)。
かつて宮崎駿氏は 「COMIC BOX」
1989年5月号で、手塚氏逝去の追悼特集であるにも関わらず、手塚アニメに
「手塚さんの虚栄心の破綻を感じた」 とか何とか、さんざんなことを書いている。
失礼ながらその言葉を借りるなら、サリマンのこのセリフで
「宮崎さんの作品世界の破綻を感じた」 のである。
(念のために記しておくと、「COMIC BOX」
の一文 「手塚治虫に 『神の手』 をみた時、ぼくは彼と訣別した」
の最初の方には、こう書かれている。
「 (手塚さんは) 闘わなきゃいけない相手で、尊敬して神棚に置いておく相手ではなかった。
手塚さんにとっては全然相手にならないものだったかもしれないけど、やはりこの職業をやっていく時に、あの人は神さまだといって聖域にしておいて仕事をすることはできませんでした」
これを読めば宮崎氏が批判めいたことをわざわざ書く気持ちも、共感まではいかずとも理解はできよう。
もっともそれは全ての同職の人々に共通のことであるし、自分こそが言う権利がある、みたいな感じはやっぱりどうもなあ、と思うけど)
無論この作品には原作があるのだから、おそらく原作にはこういった破綻はあるまい。
せっかく原作がありながら、この映画は上にも書いたようにストーリーを
「分からせよう」 という意識が希薄なようだ。
何のための戦争かもまったく触れられず、だからこそサリマンのあまりにも唐突な一言に愕然とさせられたのだろう。
しかしまぁ、最後の一言にさえ目を、ちがう耳をつぶれば、それぞれに楽しめるでしょう、ということで。
2005.01.16
追記
「ハウルの動く城」 は大勢の観客を動員し、され興行的にはすでに成功と言われている。
一方、その割には「不評」という声も結構聞く。
不評の理由もいろいろあるとは思うが、あの戦争の描き方に関する不満、というのもよく見かけた。
ふうん。 そんな意見もあるんだなぁ……
いや、待てよ!? 戦争の描き方に関する不満、というと、私が上に書いた駄文もそれと同じようにとられてしまってないか!?
ううむ、私自身が不満だったのは戦争そのものより、戦争も含めた作品舞台全体を破綻させてしまった、と感じたラストのあまりにも唐突なセリフなのだが……。
あらためて振り返ると、同じようにとられてしまっても仕方ないかもしれない。
ある文章なり作品があって、その真意が伝わらないならば、それは9割以上書いた側の責任である。
蛇足ではあるが、その後見聞きしたことも含めて追記をお許し願いたい。
先日本屋に立ち寄った時、それまでまったく知らなかった雑誌の表紙に、
「 『ハウル』 は本当に成功だったんですか?」
というタイトルを偶然見つけた。
立ち読みでざっと斜め読みしただけだが、どうやらインタビュアーが鈴木敏夫という人に、「ハウル」
の不満だった点をぶつけるというものらしい。
インタビュアーの不満点は2つ。 一つは、例の戦争の描き方に関する不満。
もう一つは、ハウルがどっちつかずでヒーローらしくない点。
それに対する鈴木氏の答え。 まず戦争については、現実世界でも、例えば中東問題でももう訳がわからなくなってる。
この作品では主人公たちの視点から描いているので、戦争の裏側などは主人公たちが知り得ないことなのだから描いていない。
また、ラストで飛行船が飛び立っていくシーンがあるが
(私は覚えてませんが)、実は戦争は終わっていない……。
ヒーローらしくない点については、例えばかつての米ソ対立の中で、どっちかに組みすることが果たして正しかったのか? といった話を引き合いに出されていたように思う。
(以上、立ち読みなので間違ってたらごめんなさいね)
ハウルがヒーローらしくない点は、ワタクシ的には肯定的なので、実は記事の内容があまり印象に残っていない。
戦争に関しても、確かに現実の戦争なんてつまらないことで始まったり、不条理で道理に合わないものだ。
まったくおっしゃるとおりである。 ただ、登場人物にとって訳が分からない、というのと、作品世界全体から見て訳が分からない、あるいはその作品にとって描く必然性があるかどうか分からない、というのは別ではなかろうか。
だから、この記事にある鈴木氏の答えには異存はなかったのだが、今ひとつすっきりしない。
それと主人公たちが知り得ないことしか描かないのであれば、ラストのサリマンのセリフも描いてほしくなかったなぁ。
大体あのセリフさえなければ、ここまでこだわらなかったんだけど(苦笑)
ベネチア映画祭では、コンペティション部門で唯一の反戦映画だとコメントされたという。
う〜む、この 「ハウル」 って反戦映画には思えないんですけど……。
戦争当事者の一人が脈絡もなく唐突に 「もうやめましょう」
などと言ってのけられるって、反戦映画なんだろうか? まぁ訳し方の違いで捉え方も違ってくる可能性はあるが……。
数年前、無意味に子供たちを殺し合わせる無意味な作品が話題になったことがあった。
その作品に対して 「残酷だ」 という批判も強かったそうだが、ワタクシ的にはその点は批判に当たらないと思っていた。
現実の方がもっと残酷なんだから。 ただ、現実でさえ残酷なのに、わざわざフィクションでまでそんなものを見せつけて何が楽しいの? 残酷なのは現実だけで充分じゃん。
と、思っていた。
この無意味な殺し合いについて、「そういう極限状態で愛だの友情だのを描こうとしたんだ」
といった反論もあったようだが、じゃあ愛だの友情だのは、そんな不愉快で荒唐無稽な状況を持ち出さないと描けないのだろうか?
友人の一人は、「ハウル」 は反戦映画じゃなくて恋愛映画なんだし、これでいいじゃん、と言っている。
私も反戦映画ではないという点は同感なのだが……。
当たり前だが、戦争を描かなくとも恋愛映画は描ける。
戦争を含めるなら含めるで、もっとさらっと描いても良かったはずだ。
またすでに書いたように、このストーリーならば現実的な戦争である必要もなかっただろう。
ただ一方、人物描写から見て、これが恋愛映画なのかというと、それも何となくしっくりこない。
反戦映画でも恋愛映画でもない (なり切れない?)、ファンタジー。
と、分類してしまいたい気持ちに駆られている
(ファンタジーの定義、というのもややこしい話なのだが
^^;)。 たぶんそれで合ってるのだろう。
しかしせっかくのファンタジーという舞台の破綻を感じてしまったあのセリフ、それがどうしても心から抜けないのである。
2005.02.25