インターネットは予言されたか?

 「鉄腕アトム」を初め、手塚治虫先生はマンガやアニメの中で、超高層ビルの建ち並ぶ未来世界をいきいきと描き出しました。戦後間もなく、まだまだ焼け跡の残る頃から。
 そして日本にも超高層ビルができ始めたとき、「手塚先生の描いたとおりになったぞ」という感想を抱いた、という話はよく聞きます。
 SFの世界では、様々な未来社会が描かれています。もちろんSFは予言ではないので、「当たった」「外れた」というのは大して意味がありません。大切なのは正確な予言ではなくて、それを用いて何を描いているか(人間とは何か。未来社会への警鐘または希望。宇宙や未知のものへの憧れ……)なのですから。
 そもそも「当たった」かどうかを言い出すと、第三次世界大戦を扱ったSFが無数にあることを思い出さずにはいられません。それらが実現しなくて本当に良かったです。
 ただSFの楽しみ方の一つとして、こんな点は当たった、これはまだ実現していない、といったことを考えるのも面白いでしょう。


 近年の出来事で、これだけはSFが予測できなかったのではないか? と私が思うものに、インターネットがあります。
 世界中をコンピュータネットワークが網の目のように結ぶというだけなら、SFでも日常茶飯事です。
 例えば、誰の何という作品か忘れてしまったのですが、こんなショートショートがありました(誰の作品かご存じの方がいらしたら、お教えいただけると幸いです)。

 ある時、世界中のコンピュータを結ぶことによって、超巨大頭脳が造り上げられます。そして完成した超巨大頭脳に向かって、代表の一人が質問しました。
「神とは本当に存在するか?」
 それに対する超巨大頭脳の答えは、こうでした。
「イエス、今こそ神は存在する!」

 ……コンピュータを結ぶ、という設定では、個々のコンピュータは脳細胞一個一個に相当する、というアナロジーがよく見受けられます。その場合、個々の細胞は無個性ですが、それが多数集まることによって、より高次のものが現出する、という風に描かれます。
 しかし、コンピュータは本当に無個性な「細胞」でしょうか。

  「果てしなき流れの果に」は小松左京先生の代表作であり、日本SFの最高峰の一つだと私は考えています。何より、今から30年以上前に書かれたにも関わらず、まったく古さを感じないことに驚嘆させられます。
 この作品では23世紀頃、超科学研究所が5個の電子脳をそれぞれ人工衛星に乗せて宇宙空間に配置し、あたかも人間が自由に討論するかのように、電子脳にも互いに議論させながら問題を考えさせる、という計画が描かれています。電子脳にはそれぞれ個性があり、互いに議論させることでそれを活かそう、というのです。しかし残念ながら、この計画は「未来からの干渉」によって挫折します。
 この作品が書かれた1960年代は、まだまだ画一的な大量生産・大量消費の時代であり、個性の尊重が本気で言われ始めるのは、もっと後のことです。この頃に書かれたSFでも、人間までもが機械のように無個性化していく様を描いた作品が沢山あります。
 そんな中で、人間どころか電子脳の「個性」を描いたことに、あらためて驚嘆させられます。


 さて。
 いまやコンピュータは家庭の、個々人の生活に密着し、何らかの「組織」を通すことなく、世界中の個人をダイレクトに結びつけています。
 もちろん80年代頃からはぼちぼち「ネットワーク社会」を描いたSFも登場します。しかし、単純に結びつけるだけではなく、ホームページという形でどんな個人でも情報の発信源になることができるのもインターネットの大きな特徴でしょう。ちょっと意味は違いますが、コンピュータ(の背後にいる人間)が個性を主張し始めたわけです。
 こんな状況を描いたSFは読んだことがない、とつい最近まで思っていました。しかし自分でホームページを開設してみて、唐突に一つの作品を思い出したのです。それはこんな話です。

 主人公はテレビ番組を作製するディレクター。視聴率を稼ぐため、少しでも変わった、物珍しい番組を作ることに腐心しています。そして彼は、自分を天才だと思っている変わり者を登場させる番組を試みます。
 ところが実際にやってみると、奇人・変人たちは訳の分からないことをわめき、ついにはメチャクチャの大喧嘩。生放送の新番組は、大失敗に終わります。
 落胆する主人公に、同僚が慰めの言葉をかけます。
 メチャクチャになったからって落胆することはない。だって今やテレビのチャンネルは無数にあるんだぜ。そんな中で、俺たちの番組を見ていた人なんてほとんどいないよ……。

 これは眉村卓氏のショートショート集「C席の客」の中の、「ディレクター」という作品です。
 無数にあるTVチャンネル。そんな中で、一つぐらい変テコな番組が流れても、ほとんど問題にならない。
 テレビ番組は、確かに視聴率を算出してはいます。しかし本当のところ、誰がどんな顔でその番組を見ているのか、知ることはできません。それに加えて、チャンネルという選択肢が無数にあるため、その中から自分の番組を選んでくれる人が、ほとんどいないような状況。
 来るべき情報過多社会、いわば「情報発信源の乱立」と、テレビ放送という発信源の「一方通行性」を皮肉った作品です。


 今、インターネット上には、もう数え切れないほどのホームページが開設されています。世界中でいくつあるのか、おそらくカウントは不可能でしょう。そんな中から、ある特定のホームページに出会う確率は、おのずと低くなっていくでしょう(そんな中でおいで頂き、心よりお礼申し上げます!)。
 そしてまた、例えば私のホームページを、どんな方が見てくださっているのか、メールでも頂かない限りなかなか知る術はありません。アクセスカウンターは少しずつ増えていきますが、サーチエンジンのロボットかも知れないし、検索で引っかかったものの、目的とは違った方なのかも知れません。なんだかテレビ番組の一方通行性と似ているような気がします。
 中には、アクセス数を増やしたいために、内容とは関係ないキーワードを羅列するホームページもあるそうです。ここまでいくと、内容よりも視聴率稼ぎに奔走する低俗番組そのまんまですね。


 しかし、もうお気づきと思います。インターネットの特徴はこれだけではありません。
 「情報発信源の乱立という状況は、確かにSFに予言されました。さすがにテレビではそこまで実現しませんでしたが(衛星放送やケーブルテレビで、これからは分かりませんが…)、インターネットによって実現してしまったのです。
 しかしインターネットにはもう一つ、「双方向性」という特徴があります。
 確かに「直接民主制」のような、双方向性の社会システムを描いたSFは沢山あります。しかしそれは、核となる「国家」「組織」などがあって、それに対しての双方向性であったと思います。
 インターネットでは、組織に関係なく世界中の個人がダイレクトに結びつけられており、個人同士の「双方向性」を実現する事ができます。これは、如何なるフィクションにもノンフィクションにも、予言されていなかったのではないでしょうか。
 結局、インターネットの命はやはり「双方向性」だと思います。これから先ネット社会がどんな道を歩んでいくか − いわゆるネット犯罪と規制の果てに衰退していくか、それとも今は夢でしかない「直接民主制」などの新しいものを実現していけるか − そうした未来は、この特徴をいかに伸ばしていくかにかかっているでしょう。
 そんなわけで、双方向性のためにも、「見たよ〜」だけでもメールくださいね〜(何だか低次元の締めになっちゃったな……^^;)。

1999.03.07

追記
 2005年10月に能美通信こと小林俊哉様から頂いた情報によりますと、 マーティン・ガードナー著・太田次郎訳 「インチキ科学の解読法」 (光文社,2004年) には、H.G.ウェルズが20世紀初頭に提案した 「世界頭脳 ](World Brain)」 という概念、またマレイ・ラインスター著 「ジョーという名のロジック」 (1946年) に出てくる 「ロジックス」 という名称の相互リンクグローバルネットワークが、今日のインターネット の概念に極めてよく似ている、という記述があるそうです。 情報ありがとうございました m(_ _)m

2005.10.22