ローレライ
 −実は 「ローレライ」 は脇役?(笑)

 1945年8月7日。 広島に原爆が投下された翌日、絹見少佐は浅倉大佐より、艦長として潜水艦 《伊507》 に乗り組むことを命じられる。 その任務は、広島に続く原爆投下の阻止だった。
 寄せ集めの乗組員を乗せて 《伊507》 はテニアン島 (日本を空襲したB-29の飛行基地が実在した) へと出航する。 《伊507》 の切り札は、ドイツが開発した 「ローレライ」 という探知システムだった。 この驚くべき性能によって、米駆逐艦の攻撃をもかわすことに成功する。 だが、その間に2発目の原爆は長崎へと投下された。
 さらに計画されている東京への3発目投下を阻止すべく 《伊507》 はテニアン島を目指すが、その途上で予想外の展開が待ちかまえていた。 《伊507》 の発進は正式な作戦ではなく、浅倉大佐の独断だったのだ。 そして東京と 《伊507》 とで勃発する事件。 その間にも、テニアン島では3発目の原爆の準備が進められていた……。

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 ミリヲタな気のある友人のお付き合いであまり期待せず見に行ったが、予想よりずっと面白かったです、ハイ。
 日本の潜水艦が舞台なのに何で横文字のタイトルなんだ!? と初めて聞いた時はしょうもないことを思ったが、この 《伊507》 はもともとドイツの 《UF-4》 であり、さらにその前はフランスの 《シュルクーフ》 という艦だったそうな。 1942年にドイツ軍に接収され、1945年ドイツ降伏後は日本が接収というなかなかすごい経歴。 スタイルも艦橋前面に2門の砲塔を持つという、なかなかトンデモな設定。
 空想の艦だと思っていたが……何と! 《シュルクーフ》 というのは実在していたらしい。 実際に重巡洋艦と同じ20.3センチ砲を搭載しており、1934年フランスで建造されたが1940年イギリスに接収、1942年カリブ海で米商船 《トムソン・レイク》 と衝突、沈没したという。 こういうスタイルの潜水艦が実在してたって知らなかったなぁ。
 一緒に見に行った友人は、潜水艦内はもっと汚いとか、何たらいう外国の潜水艦映画では乗組員の髭がぼうぼうで、とかミリヲタ炸裂なことをまくしたてていたが、あーもう、この映画はそんなことがテーマじゃないんだから!!


 日本への3発目の原爆投下というのは、SFなどでも結構馴染みあるネタなので、その点でも興味深かった。
 この「ローレライ」でもちらと触れられているが、現実でも米国の重巡洋艦 《インディアナポリス》 が1945年7月29日、日本の潜水艦 《伊58》 によって撃沈されている。
 小さい頃に読んだ子供向け戦記物の本に、この 《インディアナポリス》 が3個目の原爆を積んでいた、と記されていた記憶がある。それが 「3個目の原爆」 という話を知った最初なのだが、その後これを支持する資料を見かけないので、私の記憶か、あるいはあの本の間違いだったのかも知れない。
 現在見られる資料によれば、 《インディアナポリス》 は広島・長崎に投下された2個の原爆をテニアン島へ運び、その帰りに沈められた、というのが実際らしい ( 「ローレライ」 でも確かそのように述べられていたと思う)。
 ちなみに、原爆投下作戦そのものが極秘事項であったため 《インディアナポリス》 の行動も他部署へは知らされず、撃沈された時もその情報がきちんと伝わらなかったため、救援できたはずの多数の乗組員が犠牲になったという。
 「3個目の原爆」 でもう一つよく聞くのが、 「サンダーボルト」 という名のB-29が積んでいたとする話である。こちらは星野之宣 「落雷」 (初出時 「四次元の爆撃機」 月刊少年ジャンプ,1975年) とか 「スプリガン」 (原作:たかしげ宙、作画:皆川亮二 週刊少年サンデー,1989年ほか)など複数の作品に登場するので、何らかの元ネタがあると思われる。ご存じの方はぜひお教え下さいませ。
 東京への原爆投下計画は本作も含めてフィクションには違いないだろうが、それにしても作中でのアメリカの意図と浅倉大佐たちの意図とのつながりがイマイチよく分からなかった。
 以下ネタばれです。オッケーの方のみドラッグで反転表示させてください。
 浅倉大佐はアメリカへ 《伊507》 を売り渡そうとしていたわけで、 《伊507》 提供と引き替えに原爆投下を中止するという取り引きかと思ったのだが、どうもそうでもないらしい。 アメリカはそれがどちらに転ぼうが東京へ原爆を投下するつもりだったようで……ならば、何のために 《伊507》 を売り渡そうとしたのだろうか? そもそも大佐自身、東京に原爆を投下されて構わないと思っていたように取れる。 とすると、大佐の真意は何だったのか。 う〜ん、何か聞き逃してたかな?

 浅倉大佐は 「勇気ある者は戦死し、腰抜けばかりが生き残った。 そんな日本の100年後はどうなるか。 大人は責任を取らず、子供は国を愛さなくなる」 などと言っていた。 当たり前ながらメモを取ったわけではないのでうろ覚えだが、だいたいそんな内容だったと思う。 (間違ってたらゴメンナサイ)
 絹見艦長の 「特効は作戦とは言えない」 という姿勢から考えても、浅倉大佐の言葉や行動は、作中でもどちらかと言えば否定されるべきスタンスの一つと考えて良いと思われる。 だが一歩間違えると、 「大人は責任を取らなくなる」 なんて部分は頷いてしまいそうな危うさを秘めている。 もっとも 「子供は国を愛さなくなる」 といったって、それは愛されない国の方が悪い。 どっかの国のお偉方は国旗や国歌を強制したり愛国心教育がああだこうだとよく言うが、金と欲にまみれて不祥事ばかり起こす大人どもの牛耳る国を愛せ、と言う方がどだい無理な話だ。
 ……もっともこの思考を押し進めると、場合によってはクーデターや反乱もやむなし、となってしまいそうで、やはり危なっかしい。
 「勇気ある者は戦死し、腰抜けばかりが生き残った」 みたいなことを言っていたが、生き残ることもまた勇気ある決断であり、困難な選択である。
 この 「ローレライ」 でもっとも気に入った点の一つは、原爆阻止という生還の見込みの少ない無謀な作戦に向かうにあたって、艦長が乗組員全員に行くかどうかを選ばせ、そして行かない選択をする乗組員もちゃんといることである。彼らを途中で降ろし、 「彼らもまた日本の未来の希望」 と言って別れるのである。

 対談マンガ 「絶望に効くクスリ −ONE ON ONE−」 (山田玲司著、小学館,2005年) の第3巻では、山田玲司氏五味太郎氏 (絵本作家) との対談に、こんな箇所がある。

五味:「あの戦争で、 “特攻隊” って……逃げた人がいっぱいいるんだよ。 ガソリンを何ガロンか積んでおいて、雲間に隠れて、八重山諸島あたりで終戦までじーっと待ってたんだ」
山田:「ある意味、勇気ある 『個人』 ですね!!」
五味:「今だって、この国イヤなら捨てりゃいいんだよ」

 あの特攻隊で亡くなった人の話はよく聞くが、こういう話は初めて読んだ。 そして、ほっとした。
 亡くなった人も生き延びた人も、それぞれ様々な考えや事情があって、それぞれ下した決断の結果であることは間違いない。 どちらが良い悪いはもちろんない。 どちらの選択も同等の重みを持って尊重されるべきものであり、また個々人の様々な事情を考えれば、十把一絡げに論じるものでもない。 それを十把一絡げに断じ、切り捨てるところに国家をはじめとする組織の恐ろしさがある。 浅倉大佐の言葉や行動もその端的な一例であり、否定されるべきものと考えたい。


 特効といえば、 「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」 をご存じだろうか。 宇宙の彼方から攻めてくる強大な敵に対し、ほとんどの味方を失い、主人公の古代は最後にろくな武器も持たないまま、ほとんど自殺同然の“特攻”を仕掛ける……。
 このラストは確かに感動的ではあったが、真っ正面から死を美化していた。 ここまで大胆に美化した作品も珍しい。 見た当時はあまり気付かなかったが、今となってはその指摘も頷ける。 そういう見方もあるんだ、と知ったのは 「アニメ大好き! ヤマトからガンダムへ」 (池田憲章・編、徳間書店,1982年) に掲載された中谷達也氏の文章であった。
 いつかHPで取り上げようとして未だ果たせていないので、ちょっと長くなるがこの機に引用させていただきたい。 ヤマトをご存知ない方は読み飛ばして頂ければ良いが、ご存知の方はぜひご一読願いたい。 この文にどこまで賛同できるかは人それぞれだろうが、「こういう見方もある」 というご参考までに。

「このラストシーンを貫く思想は、紛れもなく太平洋戦争中に日本を支配したものと同質なのだ。 攻めてくる敵はみな邪悪、愛する者を守るために戦う (相手にも愛する者はいるだろう、ということはまったく考えずに)。 最後は命が武器……それにしても古代の自殺を愚挙と見せないための仕掛けの数々は、見事としか言いようがない。 生き残るべき者のために行く (死という言葉さえ、星になるという美しい言葉にうまくすりかえられている!)、仲間たちもそばについている、お国のためには死ねないが、愛する人のためになら死ねる……」
「それは、あたかも洗脳に似た行為で、言葉のすり替え、論理のすり替えによって価値観を徐々に変革していくプロセスであった。 事実、この映画の感想で “私はもう死が怖くなくなった” と言った人も、現実にいるのである。
 これを恐ろしいといわずして、何と言おう」
「この映画によって、深層意識を変革された青年たちは、いざ有事の時には銃を取ることをいとわなくなるだろう。 これはぼくの被害妄想である。 いや、そうあって欲しい。 だが、ぼくの年齢を境として、それ以下の若者に戦争体験はほとんど風化どころか語り継がれてすらおらず、今述べたようなことを言っても “何を言ってるんだ” というような顔をされるのがオチなのだ。 そしてオトナたちは今もって “たかがアニメ” という軽んじた気持ちのせいで、ぼくの感じた恐怖感を “キナくさい” 程度にしか感じてくれない。 本当にこのままで良いのだろうか?
 『さらば宇宙戦艦ヤマト』 は、ついに現実に銃をとることができなかった、かつての愛国少年の夢の実現なのだ」

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 映像的には、あまり誉められた注目点ではないかもしれないが、日本の潜水艦や米駆逐艦、はたまたドッグ内のクレーンなどは昔よくプラモデルで作ったので、変に懐かしかった (そういえば艦船模型はかの海洋堂!)。
 こういう戦争末期の映像化を見ると、小松左京 「地には平和を」 を思い出す。 この作品はもしも8月15日に戦争が終わらなかったら、というパラレルワールドもので、雰囲気的に 「ローレライ」 に通じるような気がする。 「地には平和を」 に登場するマッド・サイエンティストの言葉は、原爆を投下されても構わないと考えた浅倉大佐とある意味共通するものがあるようにも感じる。
 できることなら 「ローレライ」 のクオリティで 「地には平和を」 も映像化してもらいたいものである。 もちろん原作に忠実に。

2005.04.07