火星 − 永遠の夢舞台

 太陽系第4惑星、火星。地球のすぐ外側を回り、大きさは約半分、薄い大気を持ち、地球の弟分のような惑星。数あるSFの舞台の中でも、もっとも有名なものの一つといってよいでしょう。
 火星にまつわるSFで、まず注目すべきは、ご存じH.G.ウェルズの「宇宙戦争」(1898年)でしょう。SF好きの方で、この「宇宙戦争」をまったく知らない、という方はいないのではないでしょうか。
 火星人が未来でも過去でもない(作品発表時の)「現代」に襲いかかってくるという迫真さ。それが地球のウィルスによって全滅した、というなかなか科学的なエンディング。あのタコ型火星人は、長い間宇宙人の代名詞でした。
 この作品の驚くべき点は、本当に「火星人襲来パニック」を引き起こしたという点です。1938年にアメリカで、この「宇宙戦争」をラジオドラマとして放送しました。ところがあまりに迫真の放送だったので、これを現実の報道だと思った人々がパニックに陥ったのです。ニューヨークでは避難しようとする人々で交通が麻痺し、合衆国州兵部隊が非常呼集を発令したほどだったといいます。

 当時、火星には本当に生命がいるのではないか、とかなり真剣に考えられていました。
 1877年、イタリアの天文学者スキャパレリは望遠鏡で火星を観察し、表面に黒いすじを発見。イタリア語で「すじ」を意味する「カナリ」という名前を付けました。これがフランス語で人工の運河をも意味する「カナル」となり、しまいには「人工の大運河を発見」というニュースに変わっていったのだそうです。
 それから何十年もの間、火星表面を見ては運河や幾何学模様を目撃したという報告が相次ぎました。しかし、1965年に米国のマリナー4号が火星表面を撮影、運河など存在しないことを示しました。さらに1976年にはバイキング1号、2号が火星に着陸。生命の痕跡が見あたらないと発表されたのは、ご存知の通りです。

 現実に人類の探査機が到達するまで、火星は様々なSFの舞台となりました。
 古典SFで有名なところでは、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」(1950年)でしょうか。かつてこの映画版がTVで放送され、なかなか面白かったのですが、小説は出だしがなんとなく馴染めず、結局読んでません。なお、この作品の舞台は1999年から始まります。
 映画でのラスト、運河のほとりでこれから「火星人」として生きようと誓った主人公が、ロケットを爆破するシーンが印象に残っています。

 ちょっと変わったところでは、フレドリック・ブラウンの「火星人ゴー・ホーム」(1955年)もなかなか面白い古典的名作です。緑色の小人が世界中に出現し、国家機密も個人のプライバシーもおかまいなしに、あらゆることをばらしてしまうので、世界中がどうしようもない混乱に陥ります。
 この作品で面白いのは、彼らは一応火星人と名乗っていますが、本当にそうなのか分からない点です。世界中で何人もの人が、火星人を「撃退」する方法を試みます。
 ある人は、今後人類は火星に手を出さないことを約束しよう、と世界中に放送します。またある人は火星人を消し去る科学装置を作りだします。魔術がとりおこなわれたり、あるいは要するにこれは自分の妄想なのだ、という結論に達する人もいます。
 結局火星人は消え去りますが、そのうちの誰が正解だったのかは明かされません(蛇足を承知で後書きに明かされてはいますが、むしろ明かされないままの方が面白いと思います)。


 日本ではまともに「火星人!」という作品は少数派でしょうか。むしろ何らかの悲哀を背負ったフロンティアとして描かれることが多いようです。
 1999年7月に亡くなった光瀬龍氏の短編群には、火星第一の都市「東キャナル市」が何度も登場します。
 これらの作品群では、火星人は公式には「いなかった」とされるものの、宇宙飛行士の間で火星人にまつわる伝説が語り継がれ、それらを示唆する痕跡もある。しかしついに人類は火星人と遭遇せず、そして人類もまた、伝説の火星人と同様に衰退の道を……という、何とも不思議で哀愁漂う火星世界が描かれています。

 萩尾望都「スター・レッド」(1979年)は、火星を描いた漫画ではもっとも好きな作品です。
 火星に順応して不思議な超能力を獲得し、「火星人」となった人類と、その後入植してきた地球人との争いが前半の大筋なのですが、後半からストーリーは突然、銀河系規模の話へと拡大します。
 ゼスヌセルという人間によく似た異星人たちの説明するところでは、火星に限らず「赤色螢星」という赤い星では超能力者が誕生しやすい。しかしその超能力とは超精神生命体「アミ」が寄生した結果であり、古来よりその力を得ようとした幾多の種族が、争いの果てに滅亡していった。よってこの「アミ」とは邪悪な存在であり、「アミ」に寄生された火星も砕かなければならない、と言うのです。
 ただし、ラスト近くでこの「アミ」に主人公の一人が身を委ねた結果、死の惑星が甦っていくことを示唆する場面があります。「アミ」とは果たして本当に邪悪なだけの存在だったのか? 「アミ」は善でも悪でもない、ただそれに触れようとした者が邪な心を持っていたため、過去の種族は滅んでいったのではないか? これは私の深読みに過ぎませんが、おそらく作者もそんな意味を込めたのではないでしょうか。「アミ」を例えば「科学技術」に読み替えると、一層考えさせられる示唆です。


 「火星年代記」や「スター・レッド」に共通しているのは、火星に移民した人類が、やがて地球人ではない「火星人」として目覚めるという点にあります。
 ところが、川又千秋の「火星人先史」(1981年)にはもっと驚くべき「火星人」が登場します。
 火星に植民した人類は、遺伝子改造によりある程度の知能を与えられたカンガルーを、労働力として大量に運び込みました。ところがその中から脱走したカンガルーたちが、「火星人」を名乗り始めるのです。
 火星の荒野を駆けるカンガルー。なんと新鮮で、よく似合う光景でしょうか。
 カンガルーの反乱は、やがて「火星人」と「地球人」の互いの種の存亡を賭けた惑星間戦争へと発展していきます。
 衣類をまとい、武器を手にし、策謀すらやってのけるカンガルーたちは、まるで人間そっくりです。そこに違和感がないでもありません。彼らは人類とは異なる、新たな「火星人」となるはずでした。が、人類と戦う彼らは、あまりに人間臭く描かれていました。
 おそらく作者としては、人間と対立しうる存在、故に人間に近い存在として描くことになったのでしょう。本当に異質の存在であれば、対立すら生じないかもしれません。
 実はそれでも良かったのではないか、と私は思います。地球と火星、二つの世界が相互の干渉なしにまったく異質となっていく過程を見てみたかったものです。おそらく地球側が諦めて手を引けば、そうなったでしょう。「火星人」が独力で宇宙へ進出するには、おそらく途方もない時間を要するでしょうし、あるいは、そんな気すら起こさないかもしれません。そうなったとき、火星は、そして太陽系はどんな歴史を歩んでいくでしょうか。
 だが本作では、やはり地球側は全面対決に出、そのためにカンガルーたちも戦争に踏み切った。地球人と戦うために、彼らはその戦い方を真似たのです。「火星人」があまりに地球人臭いのは、実は地球人の責任でした。そして「火星人」が人類とは全く異なる独自の歴史を歩む道も閉ざされたのです。


 これまでの知見からすると、火星人の存在はまずあり得ません。しかし、まだまだ諦めてはいけません。
 小松左京のショートショート集「ある生き物の記録」(1965年)には、人類が得た否定データは、実は火星人が己の存在を隠したいためにそういうデータをでっち上げたのだ、というショートショートが収録されています。
 もちろん本気でこれを信じろ、というわけではありませんが(いるんですよ、ありえないなんてムキになる人が)、たとえ科学的に否定されても、それを逆手にとって遊んでしまう、それこそがSFの面白さでしょう(科学解説書ではないのですから、この「遊んでしまう」というのがポイントです)。
 さらにはかの「ドラえもん」にも、居ないなら居ないで、火星人を「創ってしまう」というとんでもなく壮大な中編がありました(コミック第13巻「ハロー宇宙人」)。
 どうしても円盤の写真が撮りたいのび太だが、偽物でごまかしたくはない。そこで火星に進化放射線を浴びせる装置を送り、カビから火星人への進化を導き、やがて彼らが円盤を作って地球を訪れるのを待つ……。時間的な問題はおいとくとして、その壮大さ(と、動機とのアンバランスさがまた何とも……)にひかれる作品です。


 1998年7月4日、日本初の火星探査機「のぞみ」が打ち上げられました。1999年10月に火星到着予定で、約2年の観測の後も、半永久的に火星を回り続けるそうです。
 この「のぞみ」には、文部省宇宙科学研究所が募った27万694人分の名前が、ごく小さなアルミ版に焼き付けられています。中には名前の他に短い文章を添えたものもあり、1998年7月5日の朝日新聞・天声人語にいくつかが紹介されていました。
「星の大好きだった息子は19歳で事故で星になってしまいました。息子の名前が火星の周りを回っているなんて、胸が躍ります」
「車椅子の身なので、名前だけでも重力から解放される瞬間が楽しみです」
「広大な宇宙のちっぽけな命。存在していたという証に」

 ついに日本も、現実に火星へ向けて探査機を送る時代になりました。27万694人分の夢を乗せて。今や火星の環境改造を真剣に研究している企業すらあります。
 現実はどんどん空想に追いつき、追い越そうとします。しかしそれでも、やはり火星は新たな空想の舞台となり続けるでしょう。 


参考:
 柴野拓美・金子隆一「宇宙・SFの世界」(集英社,1978年)
 朝日新聞 1998年7月4日・5日