未来の想い出
気が付くと、裕子は霧に包まれた見知らぬ街にたたずんでいた。
ただ知らないというのではなく、彼女の知る街に比べてどこか異質な感じのする街だった。
まるでSFマンガに出てくるような機械的な建築物があるかと思うと、その横には古ぼけたアパートのような建物がある。
そして所々にある看板には、日本語の他に英語、中国語、ハングルなどの文字も散見された。
その奇妙な街には人の気配がまったくなく、ゴーストタウンを連想させた。
しばらく歩くと、広い舗装道路に行き当たった。
とはいっても行き交う自動車は無く、アスファルトには細かいひびが入っている。
遠くに目をやると、霧を通して緑色の案内標識らしきものがあるのが分かった。
あれを見ればここが何処か分かる…。
そう考えて道路に踏み込もうとした彼女の背後から、突然声がかけられた。
「そっちへ行っても何にもありませんよ!」
驚きのあまり数センチ飛び上がって振り向くと、グレーのコートを着込んだ男が二人、立っていた。
「失礼…野田裕子さんですね?」男の一人が帽子にちょっと手をやって言った。
「我々と一緒に来てください」
「え……ちょっと待って!」 彼女は男の手を払って叫んだ。
「ここはいったい何処なの!?」
男達はちょっとめくばせし合ってから、口を開いた。
「ここは新ムサシノ市です」
「武蔵野……東京の近くの?」 西日本にしか住んだことのない彼女には、その程度の地理感覚しかなかった。
「ムサ・シ・ノ……」 男は妙なアクセントで言い直した。
「ええ、そうです……そのムサシノを含む旧東京はあっちです」と、さっき彼女が行こうとした方向を指した。
「旧東京は2075年までに地震と海面上昇で放棄されました。
今は新ムサシノ市を含む3都市が広域首都圏を形成しています」
2075年…? “旧”東京…? 広域首都圏……。
混乱する裕子には構わず、男は自分のとは少しデザインの異なったコートを差し出した。
「これを着てください。 これで酸性雨や紫外線をある程度防げます。
今は霧が出ているからいいが、日が照ると危ない」
「さあ、行きましょう……」 ともう一人が、「提督がお待ちかねです」
「提督って一体……?」
「汎大型星間移民船 《アルタイル》 船長、です」
その提督と呼ばれる人物はもうかなりの歳の様で、簡素な制服の上によれよれのガウンという、超近代的な宇宙船
(?) にはおよそ似付かわしくない格好で、船橋の奥に座っていた。
老人は裕子の顔を見るなり大きく目を見開き、シートから腰を浮かせた。
「よく…よくおいでくださった……」 見かけよりしっかりした声で語りかける。
「ここは……どこなんですか? あなた方は一体……」
「もと奥関東国際空港…そこに臨時係留中の、汎大型星間移民船
《アルタイル》 です。 ああ……あなたの時代には確か……狭山のあたりになるか……」
「あなたの時代って……そう言えばさっき2075年とか……」
裕子は振り向き、彼女を連れてきた二人の男を見やった。
「それに、これは宇宙船なんですか!? どうしてここに……どうして私がこんなところに……!」
「どこから話せばよろしいか……」 老人は伏し目がちにうつむきながら話し始めた。
「そう……今は統合7年の7月7日……あなたの時代からは100年近く未来に相当する……。
ここは火星を目指す移民船、私は提督ということだが、この老いぼれはただのお飾りにすぎない」
そこで老人は上目遣いに裕子を見やった。
それまでは目が悪いので伏し目がちなのかと思っていたが、その視線の鋭さに裕子は思わずたじろいだ。
「ただ私は……あなたを待つためだけにこのプロジェクトに参加し、この年……統合7年の7月7日を待ち続けた……」
「あたしを…待ってた……? なぜです? あたしが来るのが分かってたのですか!?」
「かつて……私は古い古い記録を……そう、あなたの日記を発見した。
その日付は、実に100年近く前の……20世紀も終わりのある日だった。
あなたは奇妙な夢を見た。 見知らぬ街を歩き……奇妙な乗り物の中で……見知らぬ老人と話した、と……。
夢の中では、統合7年と呼ばれる年の、タナバタ、という日に……」
「え……つまり、この光景は夢で、あたしはこの夢を日記に書くということですか? え、でも日記に書くのは現実で、それを夢の中のあなた方が読んで……え…?」
「混乱なさるのも無理はない」 コートの男の一人が口を挟んだ。
「語弊を承知で分かりやすく言いましょう。
確かにこの光景はあなたにとって夢であり、明日の朝、あなたはあなたの時間で目覚める。
しかし、我々にとってはこれが紛れもない現実なのです。
敢えて幼稚な表現を使うならば、あなたは今、夢の中で100年未来に時間旅行をしているわけです」
裕子はきょとんとし、頭を振った。
「……夢だわ。 マンガの読み過ぎだわ……」
「そう、夢だ……」 老人が言葉を継いだ。 「だが、わしらにとっては現実なのだ。
わしらの世界には、100年前にあなたが書き残した日記がある。
最初はただの夢の記録にすぎなかった。 だが7年前……ユーラシア連合が統合暦を採用し……そして移民船
《アルタイル》 の建造が開始され……そして記録の通りに、まるで予言が成就したかのように、あなたが現れたのだ……」
窓の外で何かが光った。 数秒後、鈍い雷鳴が響く。
「紫外線量減少、窓のフィルターを上げます…」
コートの男の一人が誰にともなく言った。
「……あたしを待ってたって言いましたよね……なぜです? 夢の通りだったとして、それが一体……」
「我々とともに来てくださらんか……この船で……ともに……」
裕子はしばし絶句し、また伏し目がちになった提督の顔を見やった。
「なぜ……いえ、いったい何処へ!? この船で? 何処へ行くのですか!?」
「……我々は、この汚染され尽くした地球から、火星を足がかりに宇宙へ新天地を求める道を探っている。
これはそのための移民船なのだ」
「地球を……捨てるのですか? なぜ?」
「それはこの新ムサシノ付近をみても分かるじゃろう……。
例えばこの日本では、すでに原子力施設の事故で本州エリア中央付近のかなりが汚染されてしまった。
かつて繁栄を極めた東京は放棄され、新しく建設されたこの新ムサシノを含む3都市が広域首都圏となった。
しかし、間もなく新ムサシノも放棄され、ついに日本は本州の放射能汚染地帯を境に完全に東西に分断されるだろう。
そして世界でも、21世紀の間に環境汚染は限界に達し、資源は枯渇し、国家間、民族間、人種間の軋轢はどうしようもなくなり、そして……そしてこの活気の無さ! 22世紀を迎えんとする今日、我が人類に未来は無いと誰もが感じている」
「でも……それって何だか私のいる20世紀末とそっくりだわ」
「今、人類は地球人口の何割かを火星やコロニーなど宇宙空間へ展開させ、地球への圧力を下げようとしている。
汚染され尽くした地球には、この先いつまで、どのくらいの人類が居住できるのかも見当が付かない。
我々は新天地にこそ未来の活路を見いだそうとしているのだ。
どうか……あなたにも来ていただきたい。 未来のために……人類の運命を未来へつなげるために……」
「わからない……!」 混乱した裕子は激しくかぶりを振った。
「わからないわ! どうして私が行くことが未来につながるの!?」
短い沈黙が二人の間をおおった。
やがて、さっきから黙っていたもう一人のコートの男が前へ出た。
「我々は時間軸を変更しようとしている。 あなたは20世紀生まれの人で……本当は現在のこの時間には存在していないはずの人だ。
あなたの生没年はすでに確認している。 変な話だがお墓もね」
「そりゃ100年も生きられないだろうけど…じゃあ今は西暦で言うと何年? あたしはいつ死ぬの?」
「それは知らん方がいい」 と提督が言う。 「例えば明日死ぬとわかったら平静でいられるかね? 人間いつかは死ぬ、それだけで十分だ」
「まあ人並み以上に長生きされてるからご安心なさい」
コートの男が初めてかすかに微笑んだ。 「先ほどの幼稚な表現に準じるならば、一つにはあなたを引き留めることで、我々は故意にタイムパラドックスを起こそうというのです」
「でも……これは夢だわ。 そうよ、あたしが夢から覚めたらどうなるの?」
「正直言って、それもわからない。 あなたの意思次第かもしれないし、あるいは今そうしているあなた自身の意識は、夢から覚めることでこの時空間を離れるとしても、やはりこの時空間にはあなたに相当する存在があり続けるのかもしれない……。
いずれにしても、あなたという存在に我々は一つの可能性を見いだしているのです」
男の抽象的な説明は、裕子の理解にはあまり役立っていなかった。
専門用語を避けているので抽象的になっているのか、それとも何か別の理由が隠されているのか……。
ドアが開き、何か紙片を持った男が急ぎ足で入ってきた。
「提督! …提督!」
この時初めて、提督の姓が呼ばれた。 その姓は彼女のボーイフレンドと同じだった。
これはまた偶然にも……
そう思って提督の方を見ると、老人は妙に狼狽して目を背けた。
「え!?」 初めてその横顔を見たとき、裕子に衝撃が走った。
そこにはそのボーイフレンドの面影があるように感じたのだ。
老人がゆっくり裕子の方を振り返った。 窓外で稲妻がきらめき、狼狽した顔を照らし出す。
そこに提督らしい威厳は無く、あまり気の強くない、どちらかというと優柔不断なボーイフレンドの老いた顔……!?
激しい雷鳴の中で、老人と裕子の視線が重なった。
突如悟ったかのように老人の顔から狼狽の色が消え、穏やかな微笑みが浮かんだ。
沈黙したまま、二人は正面から見つめ合った。
老いた両眼に、見覚えのある光があるような気がした。
裕子の頭の中を、一つの思いが駆け抜けた。
初めてわかった。 第一の理由ではないにしろ、この提督自身にとっての裕子を引き止めるわけが…。
* * *
どうしてあんな夢を見たのだろう?
その日の午後、裕子はまた夢のことを思い出していた。
朝会った彼にも簡単に話した。 100年後の年老いた姿を見た、と言ったら、何をバカなことを、と完全にバカにされた。
あの “提督” はあたしの日記を読んだ、と言った。
とすると、日記に書かなければ……。 でも彼には内容を話した。
だから同じことかもしれない。
休日の午後のひととき。 公園には穏やかな日差しが射している。
あの夢の中の、霧に閉ざされた未来とは対照的に……。
ただの夢だ。 すべては夢だったんだ……。
でも……。
それまで生きていないにしても、あんな暗く沈んだ雰囲気の未来は嫌だった。
もしも将来結婚して子供を産むなら、なおさらだ。
あの未来を思い出すと、この華やかな現代が、実はさまざまな問題を内に隠し、虚栄で飾りたてたひどく薄っぺらいものに思えてくる。
この世界 − 何十億もの人間が住む全世界も、身近な学校や会社も、どちらかというと軽薄な彼も、そして自分自身も……。
あの年老いた提督の姿が頭から離れない。
老いるのが嫌だというのではない。 ただ時代に打ちひしがれ絶望した顔が、現在の彼の顔にだぶってしまう。
ああはなってほしくなかった。 そして、老人の最後の微笑み……突如悟ったような、あきらめたような微笑み……。
そこに込められたものが何だったのか分からないが、なぜか胸が締め付けられる思いに駆られる。
提督はずっと昔に裕子を失い……死別だろうか、それとも単にふられたのか? そして未来の出会いだけを待ち……それはどれほどの時間だったのだろう。
その間提督は − 彼はどんな人生を送ったのだろう!? そしてやっと出会えたものの、それはお互いにとって、結局ひとときの夢でしかないことを悟ったのだろうか……。
もしかして……現代において、彼をふらなければ未来を変えるのだろうか。
でも……。 そう考えること自体、すでに未来にとらわれてしまっていると言うことではないだろうか。
彼女にとって未来は不確定なものであるはずだった。
そうあるべきだった。 これから先、あの未来とは異なる未来をつかめるだろうか。
それとも、あの未来も事実なら、自分と彼との愛は100年という時間の中で、閉じた輪になっているのだろうか……。
− 我々は時間軸を変更しようとしている……。
唐突に誰かの言葉がよみがえってきた。
この現代では、二人の仲はまだ愛と言えるのかどうか分からない。
だが、あの提督にとっては……。
そう、提督のために、時間軸を変えるという参考のために、未来のために記録を残そう。
二人の愛が時間の輪になっているのなら、その輪が断ち切られないために。
そしてその輪が閉じられているのなら、輪が未来へ向けて開かれるようなメッセージにしよう。
現代においては……彼との中はどうなるのか、またこれから100年間の世界はどうなるのか、本当は分からないではないか。
現代では、現代にできる努力をしよう。 そう、やはり彼女自身にとって未来は不確定なものであるはずなのだ。
たとえ100年先はああでも、彼女自身の何十年間は分からないではないか。
どう書こうか迷い続けていたノートを閉じ、裕子はベンチから立ち上がった。
今すべてを書き残す必要はない。 覚えていることを忘れないように書き留めることはするにしても、未来へのメッセージを今すぐ完成させる必要はない。
これからの人生の中で、これからの経験の中で完成させていけばよい。
− それは未来を知ろうが知るまいが、誰でもやっていることだ。
腕時計を見て、裕子は歩き始めた。 公園の出口へ。
たぶんもう待ち合わせの場所に来ているであろう彼のところへ。
− そして彼女自身の未来へ。 柔らかな日差しが、彼女の背中を包み込むように穏やかに暖めていた。
後 記
実はこの作品には、ひとつのきっかけとなったマンガがあります。
主人公の恋人が夢の中で、年老いた主人公に出会う、というシーンがありました。
といってもそのマンガにはSF色はほとんどなく、そのシチュエーションに世紀末という世界状況を無理矢理だぶらせて書いたのがこの作品です。
そのマンガは、週刊誌の連載が完結したのが80年代、後に文庫版でも出版されています。
どのマンガか分かりますか?
この作品自身、書き上げたのは90年代中頃でした。
その頃は「いよいよ世紀末!」という感じでしたが、現実の世紀末も過ぎ去り、この作品の雰囲気もちょっと時代遅れとなっちゃったわけで、やはり淋しい感じです。