千と千尋の神隠し 
− 史上最強のお説教映画? −

 この映画が公開されたのは2001年でしたが、何やら海外で公開されてから、ベルリン国際映画祭金熊賞とかロサンゼルス映画批評家協会アニメ賞などいくつかの賞を受賞し、しまいには2003年2月に第75回アカデミー賞長編アニメ賞候補作にノミネートされたんだとか。
 映画館で、あるいはTV放送やDVDでご覧になった皆さま、この映画にどのような感想をもたれましたか?
 私の個人的感想はこうでした。

「お説教くせぇ……」


 この映画は宮崎駿監督によれば 「10歳の女の子に向けた映画」 なのだそうです(映画パンフレットより)。 「この映画で千尋がやったことは、あなたたちにもできると信じて小さい友人たちに作りました」 とのこと。 この逸話はマスコミなどでも紹介されてましたね。
 ふうん。 でも同じパンフレットの最初のページには、こうあります。
「(千尋のような状況におかれたら) ただパニックって 「ウソーッ」 としゃがみこむ人間がほとんどかもしれないが、そういう人々は千尋の出会った状況下では、すぐ消されるか食べられるかしてしまうだろう。 千尋が主人公である資格は、実は食い尽くされない力にあるといえる」
 あれれ……あなたたちにもできる、と言いながら、一方でほとんどの人間はそうじゃない、とおっしゃっているように読めますね。千尋のようになるには 「資格」 がいるんですか??
 何だかね……これは私見ですが、今の10歳の女の子に向かって 「今のキミでもオッケーなんだよ」 と言うのではなくて、「千尋のような 『資格』 をもちなさい!」 と言ってるような気がするんですね。
(前半でふてくされた千尋は否定的に論じられることが多いけど、こういうのって誰にでもフツーにあることじゃないの? 後半の活発な千尋は肯定的に論じられるけど、これってあまりにもステレオタイプな 「よいこ」 じゃないの?)
「働かせてください」 以外言っちゃダメだとか、挨拶ぐらいしなさいとか、各所に散りばめられたそういう場面を見ると、何だか10歳の子ども達に向かってそういう説教をたれているような気がしてならないんですよ。
 まぁ私がそう思うのも、一緒に観に行った友人が、私と同い年なんだけど何かにつけて 「近頃の若いもんは……」 とぶつくさ言うタイプだったのが一因でしょう。
 でも。
 サラリーマンやってると、ろくに挨拶もできないオッサンとか、更衣室で他人のロッカーの前に荷物を置いて平然と着替え続けるオッサンとか、バスで隣の空席に荷物をドカッと置いて平然としてるオバサンとか、そんなやつらがウジャウジャいるのが見えてしまいます。 私自身も含めて、大人どもなんて大したやつらじゃない、そんなやつらがエラソーに子ども達に説教たれる資格なんてあるのか? なんて思ってしまうんですね。 (念のため付け加えると、一方で人格者は大勢いるでしょうし、それに、だからといって子ども達を放任すべきだと言いたいわけではありませんよ?)
 このお説教くささ、海外ではどう翻訳されてるのでしょう? 海外の批評家たちはどう感じたのでしょう? 同じ日本人であってもいろんな感想があって、中には 「千と千尋」 はお説教くさくない、「もののけ姫」 の方がお説教っぽいと言う人もいるんですね。 ふ〜ん。 「もののけ」 のどこにお説教があるのか私には全然分からんのですが……。
 ま、数千年前の古代エジプトの遺跡から 「近頃の若いモンは……」 と書かれた落書きが発掘されたそうですから、いつの世、どこの国でも同じかも知れませんね。


 千尋が過ごした 「油屋」、これは何だったのでしょうか?
 宮崎監督はパンフレットの中で 「あの世界は全部夢だったというつもりはありません。あれは本当にあったんだということを表すために、最後のシーンで車の上に葉っぱが積もっていたり、銭婆がくれた髪止めが、千尋は気付いてないけど髪に残ってる、というふうにしました」 と述べています。
 でも映画を観た感じでは、これは結局 「夢落ち」 だな、というのが正直な感想でした。 両親は当然覚えていないし、千尋自身が二度と入れない世界であり、成長につれ、「あれは夢だったのでは」 と思うようになるでしょう。 こちらの世界での記憶の共有者がいないため、木の葉やかんざしなどの小道具はあっても、こちらの世界から見れば、すべては千尋のインナースペースのみで完結してしまったことになります。

 といった理屈はおいといても、この映画のラスト近くで、この舞台が正に夢であることを確信したシーンがあります。
 銭婆のところから戻ってきた千尋が正解を言い当てたその瞬間 − 歓声が上がり、それまで登場したキャラのほとんどすべてが油屋の屋根にまで鈴なりになって登場します。
 本来ならば、この油屋というところは千尋がいようがいまいが、頑としてそこに存在している場所のはずです。 千尋が来る前からあり、去った後もあり続けるはずですね。 たとえ架空の物語であっても、そう思わせることこそが舞台のリアリティ、存在感ではないでしょうか。
 しかしこの場面を見ると、恐らくこの時の油屋の機能はほとんど停止していることでしょう。 それまでに千尋と接触のあったキャラはまだしも、接触のなかったはずの神様まで一緒にいる。 この時、この油屋という舞台のすべては、ただただ千尋一人だけのためだけに存在しているといっても過言ではありません。

 この瞬間、油屋という舞台の存在感は破綻する。
 千尋一人のためだけに存在している舞台。 すなわち、千尋が見ている夢の世界。


 そしてパンフレットに載っていた、宮崎監督との対談。
 千尋が銭婆のところへ向かうために乗った列車について、

「あの電車はどこかに繋がっているんですか?」
「そんなことはどうでも説明できます。 コジツケることは得意ですから。 でもこの映画では説明はしてません。 千尋は関心を持たないですから」

 本来、千尋が関心を持とうが持つまいが、頑として存在するべき世界のはず。 でも、千尋が関心を持たない限り存在しないのであれば、ある意味、千尋の夢の世界そのものではないでしょうか。
 ラスト、この異世界を去る千尋に対し、ハクは 「振り向いてはいけない」 と言い渡します。 この言葉こそ、まさに実在しない世界、夢の中の出来事であったことを象徴しているような気がしてなりません。

 私がこの映画を観たのは2001年8月、こうした違和感を感じつつもそのままになっていたのですが、いつの間にやら海外でいろいろと取り上げられ、アカデミー賞だなんだと言われ始めたので、今さらながらまとめてみました。 本稿を書いている時点ではまだ分かりませんが、もしも受賞したら詳しい理由や経緯を知りたいものです。
 私はそれまで宮崎アニメの大ファンだったのですが、残念ながら 「千と千尋」 のお説教節についていけず、次回作への期待も薄れてしまいました。 でも、それより前に楽しんだ 「ナウシカ」 「ラピュタ」 「On Your Mark」 「もののけ」 が決して色褪せることはありません。 また、上にも書いたように人の感想はそれぞれですから、異なる感想もきっと多いでしょう。 皆さまそれぞれの感想を大切にして下さい。

2003.03.13