巨 鯨


「バトウクジラ? ……ザトウクジラの間違いじゃないの?」
 この地の生き物を保護する立場にある監督官は、私の問いにニヤニヤしながら首を振った。
「いや、バトウだよ」
「馬の頭でもしてるのかしら? それとも人を罵倒するクジラ……」
 彼は笑いながら一枚の写真を示した。
「罵倒しまくってたら笑えるがね。 ほら、この頭部……鼻先にかけて、菱形の白い斑点があるだろ? こいつが馬の額にある白斑と似てるから、見ようによっては馬頭に見えなくもないってことらしい。 公用語では White nose whale というんだ。
 ……と言うことになってるんだが、さて、本当はどうだかねぇ」


 今、眼下の海面に巨大なクジラが姿を現していた。 昨日監督官から聞いた頭部の白斑がはっきりと分かる。 体長は100メートル近いのではなかろうか。 かつて最大種といわれたシロナガスクジラよりも、遙かにでかい。
 クジラは背面から高々と潮を噴き上げた。 それは巨大な噴水となり、ついで豪雨が私の乗る旧式のVTOLに襲いかかった。
 VTOLは豪雨を避けるのと、サービスのつもりか海面近くまで高度を下げて、背後からクジラに近づいた。 ところが、クジラはうるさくまとわりつくハエのように思ったのだろうか、巨大な尾びれで激しく海水をはね上げたのである。
「あちゃ!」 操縦士が頓狂な声を上げた。 「いけねえ、海水をもろにかぶっちまった! 先生、不時着しまっせ、ベルトをしっかり締めてくんなせえ!」
「え? 水をかぶっただけで!?」
「この辺りじゃあ海水に磁性鉱物がいっぱい含まれてましてね」
「だったらシールド機じゃないと……」
「あのね、先生、うちみたいな環境保護部の予算は雀の涙なんでさあ。 ご心配なく、この機は沈みませんし、ロボット救援機が来ます。 救援機は予算豊富な警備部の管轄だから、すぐに来てくれまさぁ」
 私はため息と共に覚悟を決めた。
 ひどいショックと共にVTOLが着水する。
 気が付くと、機体のすぐそばにクジラの顔があった。 私はVTOLの上窓を開け、上半身を乗り出した。
 波が機体を打ち、雫が顔にかかる。 私は慌てて腕にはめた携帯PCをポケットにしまい、ついで眼鏡をはずし、ハンカチで拭いて掛け直した。
 クジラと目が合った。 巨体に比べてごく小さい、しかし表情豊かな黒い目がこちらを見据えている。
 何を考えているのだろう? 何かを訴えかけているのだろうか?
 突如クジラは口をがばっと開け、そこから天をも圧するような咆哮が放たれた。 私はあまりの音量に両耳を塞ぎ、落っこちるように機内へと引っ込んだ。
 海中でのクジラの歌、というのは古い記録テープでよく聞いたものだが……かつてのクジラも、このような咆哮を上げたのだろうか? それともこの種に特有の習性だろうか?
 口を閉じたクジラは、もう一度こちらをじろりと見やってから、ゆっくりと身体を沈め始めた。 それにつれて大きな波が生じ、VTOLは木の葉のように弄ばれた。
 バトウクジラ……。 その名を思って、私はくすりと笑った。 今の咆哮は、何だか罵倒されたような気がしないでもない。
 そう、人類は罵倒されても仕方がない。
 一部のイルカを除いて、地球からクジラが姿を消して久しい。 今や大型クジラは、この惑星メガプテラの海洋で遺伝再生された数種類しか見ることが出来ないのだ。 メガプテラの環境が良かったのか、この星でクジラはさらに巨大化し、いくつかの種に急速に進化しつつあった。 たとえ異境の海であっても、やはり母なる海には違いないということだろうか。
 やはり、彼らは愚かな人類を罵倒しているのかも知れない。 かつて地球で、彼らの祖先をはじめ無数の生物種を滅ぼし、そして故郷から遙か離れた異境の地でよみがえらせた人類を。 最初にこのクジラを命名した日本人学者は、そんな引っかけを意識していたのだろうか。
 波がおさまったとき、巨鯨の姿はもうどこにもなかった。
 恒星オケアヌスの強い光も東へ傾き、メガプテラの紫色の海をより濃く染め上げていく。
 明日はまたカノープス行きの船に乗らなくてはならない。 悠然と海中を泳ぐクジラに比べて、恒星間を駆け回る人類の、なんとせわしないことか!
 私はVTOLの翼に乗っかり、救援ロボットが飛来するまでの間、地球の遺産をはぐくむ異境の海をじっと見つめ続けていた。


後 記
 すみません、さぶいネタで(^^;)。 でもこれ、シリーズ化したいとは思ってるんですが……。
 オリジナルSFでは初めて、スタイルシートによる行間あけを採用してみました。 従来のものとどちらが見易いでしょうか? ブラウザの種類やバージョンによっていろいろ変わってしまうようなので、そんな面でもご意見・ご感想を頂ければ幸いです。