黄泉がえり − 誰にでもありうる 「想い出」 の具現化 −
熊本県阿蘇地方 (熊本在住の梶尾先生の作品には、九州を舞台にしたものが多い)
で、亡くなったはずの人々が再び現れる。 それも当時のままの姿で、たしかに生きている人間の姿で。
58年前に森で行方不明になった少年が年老いた母のもとに。
娘の出産の時に他界した女性が、夫と成人した娘のもとに。
いじめを苦に自殺した高校生は、まさに自分の葬式の場に……。
厚生労働省の川田平太はこの 「黄泉がえり」
現象の調査を開始する。 平太にはこの土地に幼馴染みの橘葵がいた。
二人の共通の友人で、葵のフィアンセでもあった俊介は、かつて事故死している。
もしも亡くなった人への想いが一因であるなら、なぜ俊介はよみがえらないのか?
いじめ問題や様々な心の葛藤をはらみながらも、よみがえった人たちもそれなりに溶け込んで落ち着いていくかに見えた。
しかし調査を進める行政側は次第に強硬策を考え始め、一方ですべての現象は3週間後にある局面を迎えることとなる。
「その時」 のために心の準備をせねばならない人々、俊介をよみがえらせようとする平太、一見関係のなさそうな阿蘇での大コンサートももちろん関係があって、
「その時」 に向けてすべての登場人物、伏線が収束していく……。
* * *
2003年2月8日。翌9日の休みがたまたま私と一緒になった、映画好きの友人が電話してきました。
「今やってる映画で面白そうなのってないかねえ」
「あー、そういえば 『黄泉がえり』 って明日からやるそうだ」
「どんなんだ?」
「よくは知らんが、梶尾真治のSFが原作だそうだ。梶尾SFはこれまでほとんど外れがなかったから期待できるんじゃないかな〜」
梶尾真治先生は、これまでに読んだ作品の大半がワタクシ的に気に入っている作家さんの一人です。
というわけで友人を説得し、9日朝、二人で映画館へと向かいました。
入り口の立て看には 「『黄泉がえり』が再び黄泉がえってきました」
なんてさぶいネタが書いてある。それを見た私たちは
「寝返り」 だの 「宙返り」 だの、バカバカしい駄洒落を連発しながら並んでいました。
そして我々の順番が来た時。 バカ話の余韻を引きずったままの友人は、チケット売り場窓口で思わず言ってしまったのです。
「朝帰り、2枚」
* * *
映画館入り口にあった 「『黄泉がえり』が再び黄泉がえってきました」
というさぶいフレーズは、どうやらこの映画は最初3週間限定公開だったものが延長された、ということだったようです。
後にTVで紹介されていたところによると、なぜ3週間限定だったかというと、ストーリー上である期間が3週間であること
(何の期間か言うとネタばれになるんですが、TVでははっきり言っちゃってたなぁ)
と、限定感による宣伝効果を狙ったんだとか。
なんかそうゆう俗っぽいネライって好きではないのでかえって見たくなくなってしまうのですが、そういうことをまったく知らず、原作者が梶尾真治先生であるというただその一点のみで観に行く気になりました。
「あなたにとって、黄泉がえってほしい人は誰ですか?」
というのがこの映画のキャッチコピーらしい。
よみがえらせたい人、というのが、今は生きてるんだけどもしもこの人が亡くなったらよみがえらせたい、と思う人がいる方は、ぜひ観ておいた方がいいと思います。
でも、それが亡くなった方だったとしたら、この映画はちょっと悲しすぎるかも知れませんね。
作中、主人公の川田平太と橘葵が遭遇する
「運命」 には慄然とせざるを得ません。 「黄泉がえり」
現象とはまた別の、現実で誰もが遭遇しうる
「運命」 です。
この映画の中では、それでも最後の瞬間に
「想い」 を伝えることは出来ました (遅すぎたし、まだまだ不十分ではあったけれども)。
現実はどうでしょうか。 平太と葵のような 「運命」
に遭遇する可能性は誰にでもあります。 そして、現実の世界ならば
「想い」 を伝えることはかなわないままになってしまうでしょう。
だから。
会いたいと思う人がいたら、今すぐ飛んでいったほうがいい。
想いを伝えたい人がいるなら、今すぐ伝えた方がいい。
「ありがとう」 と言いたい人がいるなら、今すぐ言った方がいい。
もちろん現実にはそうも行かない場合が多いのですが、この作品はそんな気持ちにさせられます。
ある作品を取り上げる時は大抵どこかツッコミを考えてしまうのですが、この映画にはツッコミどころがほとんどありません。
まぁ渋滞のただ中で車を放り出していっちゃいけませんってば、とか、コンサート会場でも待ち合わせ場所をもうちょっときちんと決めろよ、てな本筋とはあまり関係ないところはあるんですが……(^^;)
無駄のない伏線が完璧なまでに決まり、仮に一人でTVでも見ていたなら、
「ええっ!」と大声をあげてしまったであろうどんでん返しもあります。
茶封筒。 あれがこれほどの伏線になるとは驚かされました。
平太と葵の共通の友人であり、葵のフィアンセであった俊介がなぜよみがえらないのか−。
途中で平太が知らされる 「黄泉がえり」 の法則によって納得してしまうんだけれども、ところがどっこい。
それだけでなく、さらにもう一段階ひねった理由があったんですね。
見終わってから気付きました(^^;)。
ところで。
この映画でいじめを苦にして自殺しながらよみがえった山田くん。
おそらくキミは現実のいじめられっ子よりははるかに恵まれています。
現実のいじめられっ子には、大抵そんな相手はいません。
まぁいないとストーリーにならなかったわけですが……。
映画のパンフレットで塩田明彦監督は 「(このエピソードに)求めたのはある
「過酷さ」 ですね。 (中略) いじめは深刻な問題だし、だけど自殺は安易には肯定できない。
その過酷さに背を向けたくなかったんです」
と述べておられます。
たしかにいじめを取り上げたことは評価できるのですが、山田くんに対して森下直美という人物を設定したことで、ビミョーにずらされたような気がするんですね。
いじめられたことが不幸なのではなくて、森下直美に気付かなかったことが不幸、といった風に……。
いじめ問題に背を向けずに取り上げました、と言うにはちょっと不十分かな、という気がします。
だからといってフィクションでより過酷なものを描けというわけでは決してないのですが
(そんなものわざわざ見せつけられても面白くもないですし)。
* * *
もしも、亡くなった人たちがよみがえってきたらどうなるか−。
そういった非日常の 「もしも」 を提示した点で、これはSFの王道
(の一つ) と言えるとワタクシ的には感じています。
なぜよみがえったのか分からないままじゃないか、と批判する向きもあるようですが、はたしてこの映画で必要でしょうか。
もちろん、SFの常套手段を用いていくらでも考えることは可能でしょう。
例えば、パラレルワールド間で個人レベルで存在をずらしてしまうような現象とか、あるいは人の想念をキャッチしてその現象をコントロールしうる異質文明のシステムでも想定すればどうでしょう。
そんなものありえない、と騒ぐ人も世の中にはいるんだけど、じゃあ宇宙戦艦やタイムマシンも描いちゃいけないんですかね? 一方、よりハードが好きな人には量子力学でも宇宙論でも好きなものを持ち込んでもらえばいいでしょう。
作中でDNA鑑定がちらっとでてきますけど、DNA再生はダメですよ? DNAというのはあくまで体の基本構造を決めてるだけで、後天的な身体特徴や記憶は関係ありませんし
(超有名な某漫画家さんの作品では、DNA上に記憶まで保存されてたりするんだけど……
^^;)。
そうした理屈付けは、梶尾真治先生の原作にはあるんですかね? あったとしても、この映画で無理に理屈を並べる必要はあるでしょうか? あってもいいけどなくてもいい。
少なくとも映画に描かれたドラマにとっては必要不可欠ではない。
ただ、SF的に考えればありうる、そういう前提だけで十分ではないでしょうか。
他人のふんどしならぬ他人への個人攻撃ばっかりな著作
「こんなにヘンだぞ!『空想科学読本』」 (太田出版,2002年)
の中で、山本弘氏はSFとホラーとファンタジーは別物だ、と述べておられます。
ホラーはともかくSFとファンタジーを区別してしまうのは個人的には反対なんですがそれはおいといて、山本氏はその定義をこう書いておられます。
「幽霊に出会ったら悲鳴を上げて逃げるのがホラー、幽霊とお友達になるのがファンタジー、幽霊を捕まえて研究するのがSF」
ふうん。 このような方の前で下手に 「黄泉がえり」
しようものなら、切り刻まれてホルマリン漬けにされそうですなあ(~_~;)
「幽霊」 とか 「黄泉がえり」 現象とか、それが誰のどんな人格であろうがSFならばこういう反応しかできない、というのであれば、SFなんていらない。
SFの 「S」 をあくまでサイエンスと限定した上での主張なのでしょうが、それでもサイエンスの限界を知り、その上でサイエンスにとらわれ過ぎないこともまたSFの一つの方向ではないでしょうか。
実はこの映画の中でもそんな人が登場して、よみがえった人三人を検査のため大学まで連れ出そうとするのですが、頓挫してザマミロな結果に終わります。
ただその頓挫の仕方、映画を見ながら予想していたのですが、見事に外されました。
よみがえった人々を前に行政がどう動くか、最後にはよみがえった人々の立場を巡って中央政府と自治体の確執になるんじゃないか、なんて想像もしてましたが、そういった
「社会現象」 を描くまでには至らず、代わりに個人のドラマを掘り下げる方向でまとめられています
(主役が有名人だったこともその一因でしょうか)。
だけど個人にとどまらない 「社会現象」、社会全体がどう反応し、どう対応していくかを描くのもSFの醍醐味ですね。
そんなSFもいくつかあったと思いますが、特に思い出されるのは手塚治虫先生の
「日本発狂」。 亡くなった人たちがあの世での戦争から逃げて現代日本に移住しようとする話で、ワタクシ的に最も好きな手塚作品の一つです。
原作者の梶尾真治先生は、映画のパンフレットでこのように書いておられます。
「『おもいで』 が現実のものになる世界を描きたかったのです。
切り口を検討している頃、夢の中で亡くなった父に会えたことで設定を具体化することができたわけです。
父とは生前に腹を割って話をできる関係ではありませんでしたが、この作品を書き上げた時、やっと自分自身に決着ができたような気がします」
似たような想いや経験をお持ちの方は大勢いるのではないでしょうか。
そういう意味で、一見ありえない話を描いた作品に見えても、
「夢」や 「思い出」 というキーワードを通じて、誰でも起り得る話ではないか、そんな気持ちにさせられます。
2003.02.13