ボクの幽霊


「今晩8時、体育館の裏へ来い」
 いじめっ子の使いっ走りが持ってきたメモを見て、僕は暗澹たる気分になった。
 これで最後にしよう、いっそのこと反撃しよう、という思いと、あと数ヶ月だけ我慢すればいいんだ、という思いが代わる代わる浮かんだ。
 しかし最後には、やっぱりそんな勇気はでないだろうな、というあきらめの気持ちと共に、僕は学校の門をくぐった。
 体育館の裏に行くため、まず旧校舎の裏手に回る。 ここは昼間でもあまり人通りがないが、かといって不良連中がたむろするほど無いわけでもない。
 だから、いじめられっ子だった僕は、休憩時間にやばくなると、よくこの辺りにやって来た。 悔し涙を拭きながら花壇を見つめ、誰かが来るといかにも通りがかりを装って、授業が始まるまでの数分間をつぶした。 この場所には、僕の3年間の苦い想い出が蓄積していた。


「うわ、うわ、うわあああああっ〜!!」
 暗闇の向こうで突然大声がして、僕は飛び上がった。 暗闇から現れたのは、僕を呼びつけたいじめっ子だ。 真っ青な顔で、血相を変えて走ってくる。
 いじめっ子は僕を見つけると、僕に抱きつかんばかりに飛びついてきた。 そのあまりの様子に、にっくきいじめっ子であることも忘れ、彼の体を抱き留めた。
「あっち、あっち、あそこ……!!」
 いじめっ子は口をぱくぱく開けながら暗闇を指すが、ろくに言葉にならない。
 僕はしがみつくいじめっ子をそっと押しのけると、彼が現れた方向に歩き始めた。 いじめっ子はなお震えながら、僕の背中に隠れるようにして付いてくる。
 怖いという気持ちよりも、あのいじめっ子がこんな風になってしまうことが痛快だった。 その原因が知りたかった。
 旧校舎の角をくるりと回り、裏手にはいる。 裏には街灯がないので、視界が一瞬暗くなった。
 暗闇の中に、何かがぼんやり光っている。 よく見ると、それは人型をしていた。
 人型の頭に当たる部分が動いた。
 背後でいじめっ子がひきつった声を上げ、走り去る音が聞こえた。
 光る人型がゆっくり近づいてくる。 だが、不思議と恐怖は感じなかった。 むしろ懐かしいような、愛おしいような感じがした。
 人型が目の前に立ったとき、その理由が分かった。 ぼんやりしてはいるが、それは僕自身だったのだ。
 人型がそっと両手を出した。 つられて僕も両腕を掲げる。
 光の中の顔が、かすかに微笑んだような気がした。
 両腕が重なり、続いて体が重なっていった。
 僕の体は、ぼんやりした光に覆われていた。


 気が付くと、その光は消えていた。 冷たい風が吹き、足元で何かがはためく。
 足元にまた、ぼんやりした光を見つけて、僕は緊張した。 だが、かがみ込んで見てその正体はすぐに分かった。
 蛍光塗料の光だ。
 足元の光るものを拾い上げ、しげしげと眺める。
 広告用の、蛍光塗料を塗ったビニール人形。 それが空気が抜けて、足元にくしゃくしゃになっていた。
 ビニール人形を手に、僕は校舎の表へと戻った。
 いじめっ子がまだ蒼い顔で座り込んでいるところを見ると、ほとんど時間は経っていないらしい。
 僕がビニール人形を掲げると、いじめっ子はひきつった笑いを浮かべた。
「お、お前……このこと、誰にもしゃべんじゃないぞ……」
 しかしズボンを濡らした姿で、震えながらでは、何の威厳もなかった。

*                *                *

「でも僕は、あれはやっぱり本物の幽霊だったんじゃないかって思ってるんです」
 青年はさわやかな顔で、中学時代の母校の写真が載ったアルバムをめくった。
「ただ、僕の顔をしていた理由がよく分かんないんですけどね」
 L博士は穏やかな顔でアルバムを見ていたが、つぶやくように言った。
「私は幽霊を否定も肯定もしないが……俗な言い方だが、幽霊というのは残留思念だってよく言うね。 もしもそうなら、その幽霊は、君自身の残留思念だったということかな」
「でも僕は生きてたんですよ。 今もだけど……」
「いじめられた辛さ、悔しさ、哀しみ……そんなものが、いわば残留思念として、その場所に蓄積したのかも知れないね。 しかも、それは君一人分じゃないかも知れない」
「そうか……だからいじめっ子には恐怖を与え、僕にはそんな感じはなかったのかなあ。 結局、残留思念という形で仇をとった、ということなんですかね。
 僕はまた、L先生だったら、そんなのビニール人形の見間違いだって断言されると思ってましたけど」
 L博士は微笑んで首を振った。
「頭ごなしに否定するのは科学的じゃないね。 幽霊にしろ神様にしろ超能力にしろ、科学的に結論が出ない限り、盲信もしなければ頭ごなしの否定もしないのが、私の主義さ。
 もちろんビニール人形の見間違いだった、という可能性も否定はしてないけどね」
「先生のお話で、そのビニール人形がなぜあったのかも分かったような気がします。 ビニール人形は幽霊を否定できる材料じゃないですか。 そんなものを幽霊が残していったなんて不思議だったんです。
 でも、幽霊というより僕自身の残留思念だったとしたら……」
「というと?」
 青年はにっこりと微笑んで言った。
「だってあのいじめっ子、自分がビニール人形を見間違えたんだと信じ込んで、それ以来僕に強く出れなくなっちゃったんですよ」


 自分よりずっと後輩に当たる青年を見送って、L博士はかつて通った大学のキャンパスを見渡した。
 学校という場所は、いろんな人間の思いがぎっしり詰まっている。 良い思い出も、辛い思い出も、百人いれば百通りの思い出が……それが何世代にも渡って、積み重なっている。
 私はここにどんな想いを残していったのだろう。
 将来の希望? 今、私はその想いを実現しただろうか。
 まだまだ実現できないこと、やり残したことは山ほどある。
 L博士は思い出にしばしの別れを告げると、大学の門へと歩き始めた。