バーミリオン会戦最後のクライマックス、宇宙暦799年5月5日。
本国からの停戦命令を受けたヤンは、勝利の寸前で兵を引きます。
これをどう捉えるかは 「銀河英雄伝説」 最大のテーマの一つでしょう。皆さんはいかがお考えでしょうか?
もしも何らかの事情で、あるいは意図的に、命令が伝わらず、結果的にヤンが勝利を収めていたとしたら……。
誰でも一度は考えてみることと思います。 そうなったら……やはり帝国軍は撤退し、ヤンはやっぱり政治には口を出さず、復活しようとするトリューニヒトと良識派のレベロやホワン・ルイあたりが争って、帝国では誰それあたりが内乱を……なーんて想像するのですが、ものすごーく難しいですね。
やはりヤンとラインハルトが揃っての銀英伝、揃わなければそれはもう別の物語となります。
この状況を扱った作品もいくつか拝見しましたが、捕虜となったラインハルトがヤンと同格でなくなっちゃったり、ヤンが後に続くもの
− 原作でのユリアンやイゼルローン共和政府に相当するもの
− を何も残さなかったり、というあたりで、う〜ん……と。
それも仕方のないことで、やはり 「万人を納得させうるような」
ストーリーは不可能なのでしょう。
おかしな言い方ですが、もしもラインハルトが倒されれば、「銀河英雄伝説」
はそれ以上は続かなかったでしょう。 ヤンは第8巻で倒れましたが、ユリアンのような後に続くものがいたからこそ、第10巻まで続いたのでしょう。
逆に言えば、ヤンが勝ったとしても何らかの形でラインハルトが生き延びていれば、まったく別の銀英伝が展開されたことでしょう。
ただしそのストーリーは英雄の復活譚と想像され、銀英伝のメインテーマの一つ
− 民主主義の抱える矛盾、困難さからは遠ざかったでしょう。
つまり、民主主義の抱える矛盾、困難さを描くためには、同盟が
− つまりはヤンが、負けて苦労するしかなかったのでしょう。
ヤンは憤慨するだろうけど…… (^^;)
本文中にも書きましたが、結局ヤンの決断が是か非かという問題は、ヤンとラインハルトという極めて特異で拮抗した二個人だからこそ生じる問題であり、現実の歴史では様々な条件の違いでどちらかに天秤が傾いたりするのだと思います。
このバーミリオン会戦において、ヤンが 「ラインハルトを倒さなかった」
ことを是とするのは納得できます。 ヤン自身が悩んでいたように、ラインハルトは優れた改革者であり、そのラインハルトを倒すことは歴史を逆行させる恐れが確かにあります。
何より、ちとうろ覚えですが 「私はあの人 (ラインハルト)
を倒したくなかった」 といったセリフだったか独白があったように記憶しています。
「他人から見たらバカだと思うに違いない」
といったセリフから見ても、ヤン自身はあくまで個人的・主観的な思考の結果下した結論であり、自分の結論に普遍的な正義があるとは微塵も思っていない、という点は間違いないでしょう。
しかし、もし仮にこれが民主主義にのっとった正義、民主主義の軍隊ならばこうするのが正しい、と思われる方がおられたら、
「では敵手がラインハルトではなく、アドルフ・ヒトラーであったとしても、兵を引くことを是としますか?」
とお訊きしたいと思っています。
もっともだからといって、どこかの超大国みたいに兵を引くことなく徹底的に殲滅戦を繰り広げるのが良いのかと訊かれると困ってしまうわけで、この質問もヒトラーという特異な一個人にしか適応できない、と言われればそれまでなのですが……。
降伏の後、シェーンコップとユリアンがこんな会話をしています。
「銀河帝国は和平の代償として、ヤン提督の生命を要求するかもしれない。
政府がそれに応じてヤン提督に死を命じたら、その時はどうする?」
「そんなことはさせません、絶対に」
「だが、政府の命令には従わなければならんのだろう?」
シェーンコップの問いはすごく辛辣だけど、内容としてはある意味鋭い指摘です。
この質問に対するユリアンの答え、
「それは提督の問題です。 これはぼくの問題です。
ぼくはローエングラム公に屈服した政府の命令になど従う気はありません」
これはいささか論理的とは言えませんよね。シェーンコップは
「ユリアン、失礼な言い草だが、お前さん大人になったな」
と言ってますが、どうもそうは思えません。……彼の場合は、そう言ってでも無理やり納得しようとしたのかもしれませんが。(もっとも、この問いそのものに論理的な正解などないでしょうから、この質問については従わないことが間違い、ということは決してないと思います。ヤン自身だって唯々諾々と従うことはないでしょう。ただ、この場合は政府に従うかどうか以前に、民主主義の理念と、軍隊という存在、戦争という行為がそもそも本質的に相容れないものである点が問題であるように思います。「民主主義国家の軍隊ならばこうするのが正しい」
といった議論そのものが、矛盾に満ちた命題であるように感じられます。)
この会話の前に、シェーンコップは 「もし政府が無抵抗の民衆を虐殺するよう命令したら、軍人はその命令に従わねばならんのかね」
とも問うています。これに対するユリアンの答えは論理的であり、納得しうるものです
(現実性があるかどうかは別にして。 現実には、民主主義国家の軍隊であるかどうかにかかわらず、それすらできないことが多いですけどね)。
ここで 「お前さん大人になったな」 と言うなら、よく分かるんですけどね。
「『銀河英雄伝説』 研究序説」 (「銀英伝」
研究特務班、三一書房、1999年) ではヤンの兵を引くという決断について、歴史上の
「軍事的英雄は常に独裁への道をひた走っている」
と断定し、ヤンもこの時 「独裁への道」 か否かの岐路に立たされていた、と断じ、その道を選ばなかったことを
「過去の過ちを繰り返さず、歴史に良き前例を残した」
とやたらめったら賞揚しています。
同書では、一方で 「ヴェスターラント虐殺を黙認したのは正しかったか?」
という命題に対しては、「単純に是非を論じられない
− つまり、絶対的に間違いとも言い切れない」
と記しています。
ワタクシ的には、もしも 「ヴェスターラント虐殺を黙認したのは正しかったか?」
と問われれば、まずは 「間違いであった」 と断じるべきと考えています。
その上で、間違った選択に対してはやはり何らかの責任は問われなければならないし
(ラインハルト自身は責任を感じてましたね)、間違いであることを承知した上で、それでもなおその手段を選択したのである、という認識も必要ではないでしょうか。
ヴェスターラント虐殺の黙認が 「正しかった」
あるいは 「間違いとも言い切れない」 という考えの拠り所は、その方が内乱が早く終結して犠牲が少なく済む、すなわちラインハルト陣営が必ず勝利する、という
(この場だけにしか適応できない) 普遍性のない確信によっています。
ラインハルトに対するこうした普遍性のない確信が認められるなら、ヤンがたとえ勝利しても独裁の道は歩まない、という
(ヤン個人にしか適応できない、普遍性のない)
確信も認めうるのではないでしょうか……そういう考えも認められるなら、ヤンの決断こそが
「単純に是非を論じられない」 と言うにふさわしい命題といえるのではないか、と感じられます。
ヤン自身は自分について、権力の座についた時に変わらない自信はない
(だから権力に近づきたくない) と言っています。無論それはその通りだと思いますが、だとすれば、ラインハルトが変わらないという保証もまた、ないと言えるでしょう。
ヤンはラインハルトが優れた改革者であり、個人的には倒したくないと考えていました。
ですが、最高権力を握ればやがては豹変し、例えば復讐者と化したり戦犯狩りに走るという可能性も絶対にないとは言えないでしょう
(だからこそ、個人の資質に全てを委ねる専制主義よりも、民主主義をとりたいんですよね)。
ということは、ヤンの決断は無論普遍的・絶対的な正義ゆえではなく、ある意味で自分や周りの人々の運命、ひいては人類全体の命運を、ラインハルトが豹変しないことに賭けたと言えるかも知れません。
軽々しいことは言えませんが、ヤンの決断についてはおそらく田中先生自身も、どちらが正しいという厳密な解答はない
− 「正解はない」 というのが正解 − とお考えではないかと思います。
ヤンが停戦を決断し、シェーンコップの煽動を断る時の原作の記述
−
「ヤンは無言だったが、その沈黙は周囲のそれと微妙に異なっていた。嵐ではなく小春日和の要項をはらんだ沈黙のようにフレデリカ・フリーンヒルには思われたが、それが行為のありすぎる誤解でなかったという保証はない。
だが、沈黙の檻を、叩き割ったのではなく穏やかに押し開いたヤンの言葉は、フレデリカに確信を深めさせることになった」
− これを読むと、おそらくはヤンの決断を是とする方向にあることは確かでしょう。
しかし物語の後の方には、ビュコックさんの「ヤンのためにも撃つべきだったのだ」という言葉があります。
この意味も様々に取れるでしょうが、ヤンの決断を是とするとしても、絶対的な正解とは捉えていないということは言えるのではないかと思います。
それを、何か普遍的な正義でも存在するかのように賞揚しすぎるのは、少々外れてしまうのではないかという気がしてしまいます。