1.
「友よ、拍手せよ。 喜劇は終わった」
西暦時代の大作曲家、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが死の間際に遺した言葉だという。
伝説によれば、作曲家であるにもかかわらず耳が聞こえなくなるという不運に見舞われたそうだが、その後も歴史に名高い名曲を数多く生み出したという。
その終幕に際して己の人生を喜劇と称したのは、いかなる心境によるものなのだろうか。
人は誰でも、歴史という舞台の中でそれぞれ何らかの役を演じているのだという。
舞台の少しでも中央で演じようと − あるいは本人の希望とは関係なく
− 多くの人々が主役を目指すが、そのほとんどは失敗に終わり、無数の悲喜劇が幕を閉じる。
その一方、当人もその時代の観客たちも端役だと思っていたのに、後世の観客たちの手によって主役や大俳優の地位に押し上げられてしまう者もいる。
博物館という場所には、歴史という舞台で主役を飾った人々の遺したものが多数展示されている。
一方で、まったく無名の人々が遺したものも展示されている。
主役の人々にまつわるものは、やはり遺される確率が高い。
だが、そうした人々はあくまで人類のうちのごく一部であり、人類や世の中全体の代表とは言えないのではあるまいか。
むしろ、無名の人々こそがその時代を表す真の代表ではなかろうか……。
テラスに足を踏み入れると、照明が煌々と中を照らしていた。
昔の博物館は照明を四六時中つけっぱなしにして展示品の劣化を早めたというが、現代の博物館は館内の大気成分、温度、湿度までも中枢コンピュータがきちんと管理している。
見学者の動きにあわせて照明を操作するなど造作ないことだ。
彼が入る前に照明がついていたということは、誰か他にも見学者がいるということだ。
博物館最大のテラスは超硬質ガラスに覆われている。
ガラスの向こうは絶対零度の真空。
ガラスの向こうには、濃緑色の巨大な構造物が横たわっていた。
全長1159メートルもある宇宙船だ。 あまりの巨大さのため、その端から端まで見渡すことすらかなわない。
むろん、全景を見渡したいときは、より階上のテラスなど他の場所から見れば良い。
彼はゆっくりと船首が見える方角へと歩み寄っていった。近づくにつれて、船体は彼の視界一面を覆う巨大な壁となっていった。
真空と室内を隔てる分厚いガラスを前に、ぽつんと人影が見える。
やがて先客は若い女性だということが分かった。
女性はただひたすら、ガラスの外 ― 巨大な宇宙船の船首を見上げている。
数メートルまで近づいて、やっと女性は近づいてくる存在に気付いたようだ。
彼を目に留めると、わずかに会釈した。
彼は若い女性がこのような展示物に興味を持つということに、ささやかな好奇心を覚えた。
「こんにちは……」
声をかけると、女性はお愛想程度の笑みを浮かべてもう一度頭を下げた。
「すごいものですなあ」 と女性の横に立ち、上を見上げる。
この宇宙船の先端には、縦8列、横5列に黒い穴がずらりと並んでいる。
遠い昔、この船が現役だった頃は、この穴一つ一つから強力な破壊エネルギーが放たれた。−
宇宙戦艦だったのだ、この船は。
彼女は何を思って、戦艦の艦首を見上げていたんだろう?
「昔はこんな戦艦が宇宙を駆け巡っていたんですなあ」
会話の糸口をつかもうと、無難な言葉を続ける。
「アキレウス級、というんだそうですね」 彼女が物静かな声で応じた。
「 《リオ・グランデ》 も見ましたが、あれは縮小再生したコピーですからねえ。
こいつは唯一、現存する本物のアキレウス級だそうですよ。
ええと、何て言ったかな……」
「 《メムノーン》 っていうそうですね。アキレウス級の中でも正史にはほとんど登場しなかったそうですけど。
それでも自由惑星同盟の最後の数年間に幾つかの会戦に参加して、その
《リオ・グランデ》 とも一緒に戦ったこともあるそうですね」
「……ずいぶんお詳しいんですね?」 意外さに彼は目を丸くして、女性の顔を見やった。
そこで初めて彼女は愛想でない笑顔を見せた。
「これ、受付で買いましたから」
彼女が示したのは、リーダーに差し込んだガイドディスクだった。
ああ、と彼も得心して頷く。 実は彼も買っていたのだが、ポケットに入れっぱなしだったのだ。
自分のガイドディスクを取り出そうとして、彼は上着の襟をつまんだ。
胸のIDカードに女性の視線が注がれるのが分かる。
何しろ彼のカードは報道関係者用だから、色ですぐに分かる。
「あっ……」
女性の上げた声は、彼の予想よりもずっと意外そうな成分を含んでいた。
怪訝そうな表情を演技しつつ、女性の顔を見やる。
「あ……す、すみません」
「どうかなさいましたか?」
「いえ、その……あの、失礼ですけど、ミスタ・アッテンボローとおっしゃいますの?」
「ええ、そうですが……」
「あのう……それでは、ダスティ・アッテンボローという方は……」
今度は彼の方が驚きの声を上げた。
「どうしてその名を?」
「そうですか……」
女性はもう一度宇宙船を見上げた。 その視線は宇宙船の外殻を貫き、遠い
「何か」 を見つめているようだった。
「よろしければお話しいただけませんか。 私は汎銀河通信網バーラト支局のウィリアム・アッテンボローです。
ここでお会いしたのも何かのご縁です。お役に立てるかも知れません」
「私……知りたいんです、この船のことを。
この船に関わった人々のことを……」