2.
新帝国暦53年。 イゼルローン回廊の旧同盟側出口付近で、銀河帝国工部省アスターテ星域再開発管区所属の調査船が、大型宇宙船の残骸を発見した。
実に160年もの長きに渡って銀河帝国と自由惑星同盟との恒星間戦争が繰り広げられ、数多くの宙域で何万隻もの宇宙艦隊が戦いあった後の時代、宇宙船の残骸は決して珍しいものではなかった。
だが戦争終結からちょうど半世紀に当たる年に発見されたその残骸は、いくつかの点で注目を集めることとなった。
まず第一に破壊の程度が少なく、残骸とは言ってもほぼ完全な姿形をとどめていたこと。
戦争終結後、戦災からの復興と再開発のために行われた大規模な宙域整備と、資源回収を目的とした精力的な掃宙作業の過程で、このような大きな残骸はほとんど発見された後だったのである。
その後の調査で、この残骸はイゼルローン回廊の危険宙域ぎりぎりをかすめ、大きく迂回するコースで半世紀もの時間をかけてアスターテ方面へ漂ってきたものと推察された。
イゼルローン回廊内でもおびただしい艦艇が戦闘の犠牲となっていたが、大半の残骸は回廊内の危険宙域や不安定な星系重力場に呑み込まれ、失われていたのである。
そして……この残骸が、全長1100メートルを越える最大級の宇宙戦艦であったことも、人々を驚かせた。
むろんほとんどの人々は知識として、あるいは一部の人々は過去の実体験として、そうした戦艦が存在していたことを知っていた。
だが大型戦艦の大半は戦乱で失われ、生き残ったわずかの艦も戦後解体されるか、民需へ転用されていった。
戦後半世紀がたち、転用された艦もすでに老朽化で引退し、わずかに帝国側の著名な艦が記念艦として保存されるのみとなっていたのである。
発見された艦は、自由惑星同盟末期の旗艦級戦艦
《アキレウス》 級であることはすぐに判明した。
宇宙暦781年から796年にかけて二十数隻が建造され、人類史に名をとどめる諸将の乗艦となり、数千光年を幾度となく駆け抜け、宇宙軍事史上特筆されるいくつもの会戦を戦い、散っていったクラスである。
この 《アキレウス》 級は発見された宙域から見て、新帝国暦2年から3年にかけてイゼルローン回廊内かその近傍で起こった会戦のいずれかで被弾し、破棄されたものと推定された。
その破壊状況から、乗員の大半は恐らく無事退艦したものと考えられた。
艦名その他を特定できるような情報は、退艦時にすべて消去されていた。
仮に艦船マニアとでも呼ぶような人種がその場にいれば、残された艦形の特徴から艦名を言い当てることも可能だったかもしれない。
だが戦後50年が経ち、しかも一般に入手できる情報のみでは、その精度に自信を持てる者はそうそうはいなかった。
またこの 《アキレウス》 級はイゼルローン共和政府軍の一隻として戦ったものと考えられたが、イゼルローン共和政府軍に参加した艦艇は正式な手続きを経ずに加わったものが大半であり、その艦名を網羅した正確な資料もほとんど残されていなかった。
ただ一つ、戦後しばらくして発見されていた、個人保管のある書類が、大きな手がかりとなった。
それは宇宙暦799年にハイネセンを離脱した、いわゆる
「ヤン・ウェンリー独立艦隊」 に同盟艦隊の一部を譲渡する、というチュン・ウー・チェン艦隊司令代理の
“譲渡契約書” であった。 この “譲渡契約書”
は、現在ではヤン・ウェンリー記念宇宙軍博物館で公開されているものである。
なお、この “譲渡契約書” が実際問題として法的に意義のあったものか、ひいてはその記載内容や信憑性までも疑う、頭の固い歴史家も多い。
しかしユリアン・ミンツの残したイゼルローン共和政府軍に関わる記録の中に、確かにこの
“譲渡契約書” が触れられており、少なくとも信憑性は認められている。
“譲渡契約書” には5560隻の艦艇が記されており、これらの艦隊はムライ中将らの指揮で、イゼルローンに合流したとされている。
発見された “譲渡契約書” には、この5560隻とは別に、ムライ中将のサイン入りでいくつかのリストが追加されていた。
ムライ中将自身は戦後も自身にまつわることはほとんど語ることがなかったが、イゼルローンへ向かう過程で同盟辺境に散らばる小部隊や残存艦艇をもまとめ上げ、イゼルローンへと集結させるべく奔走したことが、当時行動を共にした将兵たちの証言で判明している。
このリストの一つ、ほとんどが中小の支援艦艇からなる、38隻のささやかな部隊
− その中に、 《メムノーン》 という艦名が確認されたのである。
《メムノーン》 ……宇宙暦791年に就役した、アキレウス級第17番艦。
第一辺境艦隊旗艦の任にあったが、宇宙暦796年のアムリッツァ会戦では第10艦隊の分艦隊を指揮。
従軍したほとんどの辺境艦隊が失われる中、辺境艦隊では唯一帰還したアキレウス級であった。
797年、同盟史上初のクーデターでは叛乱を起こした第2辺境星域を鎮圧。
同盟主力艦隊の壊滅に伴う宇宙暦799年の大再編で、新設された第14艦隊の副旗艦となったが、ランテマリオ星域会戦で中破した。
その後、 《メムノーン》 はバーラト星系の工廠で修理中であったため、ヤン提督指揮による同盟正規軍最後の戦いとなったバーミリオン会戦には参加しなかった。
そしてバーラトの和約成立当時は未だ修理中であり、
(公式には) 修理が中断されたため、バーラトの和約第5条に基づく破棄艦艇の第一次リストからも漏れることとなった。
その後は同盟軍の公式資料そのものがほとんど散逸したこともあり、他の多くの艦艇同様、正確なものが残されていない、とされていた。
正史において、同盟軍のほとんど全ての残存艦艇は、最後の宇宙艦隊司令長官アレクサンドル・ビュコック元帥とともにマル・アデッタで散華するか、
「ヤン・ウェンリー独立艦隊」 、後のイゼルローン共和政府軍に合流するかの道を歩む。
個々の艦艇がそのどちらを選択したかはほとんど資料が残されていなかったが、この
“譲渡契約書” の発見によってはじめて、多数の艦がヤン・ウェンリーの下へと参集したことが証明された。
それとともに、これらの艦艇に乗り組んでいた、歴史に名の残ることの無かった多くの同盟軍将兵たちの決断もまた、歴史の陽の光を受けることとなったのである。
そのうちの一つ、 《メムノーン》 以下38隻のささやかな部隊が、どのような経緯でムライ中将らと行動を共にし、そしてイゼルローン回廊で個々の艦艇がどのように奮闘したのかまでは、正史には記録されていない。
ただ、幾人かのジャーナリストの努力によって、まだ存命中であった当時の関係者が突き止められ、埋もれた歴史が発掘されるきっかけとなった。
こうして、 《メムノーン》 はイゼルローンに参集したことが確認された、数少ないアキレウス級戦艦の一隻となっていた。
《シヴァ》 をはじめイゼルローン共和政府軍参加が確認されていたわずかなアキレウス級は、いずれもどのような状況で失われたか、正史においてほぼ特定されている。
そこで、参加したにもかかわらずこうした記録が残されていなかった
《メムノーン》 こそが、新帝国暦53年に発見されたアキレウス級である、と結論づけられたのである。
戦争末期の巨艦がちょうど半世紀ぶりに発見されたという報道は、旧自由惑星同盟内で大きな反響を呼んだ。
バーラト星系自治政府の元交通管制委員長ベティ・イーランド女史が、
《メムノーン》 艦体を惑星ハイネセンに引き取ることを提案した。自由惑星同盟最後の時代を象徴する記念艦として、歴史を刻み込む証人として。
間もなく、ラムビスやアイギーナなど 《メムノーン》
にゆかりのある惑星自治政府も、艦体引き取りに名乗りを上げた。
ところが、やがて旧帝国領にある惑星も立候補し、旧同盟の人々は首をかしげた。
名乗りを上げた惑星の名はリューゲン。 旧帝国暦487年、宇宙暦796年、双方の人々の心に深い傷跡を残した、アムリッツァ会戦における激戦地の一つだった惑星である。