標本箱 − 時の玉手箱

 1999年2月9日。あの手塚治虫先生が亡くなってから、10年になります。世界にも知られるこの文化的偉人に、どうして国民栄誉賞がなかったのか、私は今でも不満でなりません。(その理由については、後にこんな文章をアップしました)。

 手塚先生が昆虫少年だったことは有名です。
 1999年1月15日、NHKで 「手塚治虫・世紀末へのメッセージ」 という番組が放送されました。 この中で、子供時代に手塚治虫氏と一緒に昆虫採集をした経験のある林久男氏が紹介されていました。 林氏は、手塚先生と一緒に宝塚で採集した標本を、今でも大切に保管されています。
 その標本のラベル (採集日や採集場所を書いた紙片。標本一個ずつに必ず付ける) には、2603年の採集日が書いてありました。これは戦前の皇紀という暦法で、1943年に相当するそうです。


 この標本のように昔の資料は当然として、これからは後世のためにも、もっともっと西暦を使うべきではないでしょうか。 元号は日本人にしか通じないし、しかも後世から見ると、なかなかやっかいな暦法です。 何しろ今や昭和何年と言われても、ぜんぜんピンときませんし。
 まあ元号には文化的意義があるという方もいますが、もちろんそれは認めるとして、文化的行事の中で大切に保存していけばよいことです。
 「西」暦ということに引っかかる人もおられるようですが、それでしたら日本人にしか通用しない元号ではなく、地球暦を制定するような道を考えようではありませんか。将来、地球暦なり何か共通のものが採用されれば、そちらを使えばよいことです。例えば、西暦2001年を地球暦元年とするなんて、とっても魅力的だと思ったんですが。
 ちなみに元号というのは、昔の中国の皇帝が、皇帝とは時間も支配する者だという思い上がった考えによって定めたのが始まりだそうです。
 あ、話が冒頭から大きくそれてしまいました。 申し訳ありません。こじつければ、標本はラベルが大切だと思うのですよ。 で、どうせ付けるなら、これからは後世のためにも西暦のような誰にでも分かり易い暦法がいいな、と。


 標本とは、自然界にいる昆虫たちを採集してきて、その姿が永く残るように保存したものです。
 手塚治虫先生が少年時代に採集した時の標本が、今も残っている。 あの手塚先生と一緒に感動に打ち震えたであろうその標本を、こうして見ることができるのです。 何とも素晴らしいことではありませんか (じかにこの眼で見ることができればもっと素晴らしいのですが、それは高望みというものでしょう)。
 昆虫を採集して標本にすることに対しては、それよりも生きた姿を観察しよう、という声もあります。
 生きた姿の観察は、確かに良いことです。 ですが、観察さえしていれば標本は不要、なのでしょうか?
 観察は一瞬です。 その場にいない限り、体験を人と共有することはできません。 写真などで客観的に記録しようにも、そうそう思い通りにはいきません。 少なくとも、小さな子供には無理でしょう。
 しかし、標本は誰もが同じ体験を共有することができます。 どこそこで、いつ採集された標本。 世界に一頭しかない模式標本。 手塚治虫と一緒に採集した標本。 あなたや私が採集した、想い出の標本。
 たとえ小さな子供が作ったボロボロの標本であっても、その子にとっては大切な宝物です。 そして誰が作った標本であろうとも、どんなにボロボロであろうとも、紛れもなく、その日その場所にその昆虫がいた、という客観的証拠なのです。


 一方、標本箱の中の標本は、生きた姿とは違うという声があります。標本とは自然の姿そのままではない、 「切り取られた自然」 なのだ、と。
 もちろんそれは当然で、標本を見るときは、そのことを忘れてはならないでしょう。
 「切り取られた自然」 であるのは、標本に限ったことではありません。
 私の友人に、水族館に行くのは絶対にいやだ、と言うのがいます。 彼はスキューバダイビングもよくしますが、海の中で見る魚に比インコ写真べて、水族館の魚は生気が少なかったり、病気になったりしているのが多くて可哀想だ、と言うのです。
 大阪府のとある公園には、海外の美しい鳥を放し飼いにしたバードケージがあります。 中にはいると、それらの鳥たちとの間に金網はありません。 美しいインコ類を、間近に見ることができます。
 でもよく見ていると、中には池で溺れるインコもいたり、ウズラの上にインコが飛び乗ってつつき回したり……。 毎日大勢が出入りする環境では、ストレスがたまるのでしょうか。
 ちなみに、大阪市の全国的に有名な某水族館。 ここには何と、カモの一種まで閉じこめられています。 渡り鳥を閉じこめるなんて……。
 これらはすべて、自然から切り離された 「切り取られた自然」 といえます。
 極端なことを言えば、現代文明では自然そのものが人間から切り取られているのかも知れません。

 近年、欧米を中心に環境保護運動などが活発化しています。 しかし西欧文明においては、 「自然に対する優越意識」 が先行しているような気がします。
 つまり人間は他の生物より (ある面では) ずっと優れており、その人間サマが自然を守ってやるのだ、という意識が無くはないのでは …… というと、言い過ぎでしょうか (それでも何もやらないよりは、はるかにマシですが)。
 西欧文明の自然観は、人間から切り離された、という意味で、正に 「切り取られた自然」 でした。

 では、東洋はどうでしょうか。 実は東洋でも、自然は 「切り取られて」 きました。
 日本では昔から、スズムシをはじめ十数種の鳴く虫が、飼育・愛好の対象となっていたそうです。 虫の声を愛するのは西欧ではイベリア半島ぐらいで、日本と中国がもっとも盛んであり、ラフカディオ・ハーンは 「非常に上品な、また芸術的な美的生活」 と書いているそうです (朝日新聞・1990年10月26日)。
 では、これより日本人の自然への優しさがいえるのでしょうか。 この記事で大阪市教委の加納康嗣氏は、 「本物の自然ではなく、切り取って囲い込んだ自然に愛着を感じる、つまり単なる箱庭趣味」 と述べています。 「日本人ほど本物の自然を愛していない民族は少ない気がします」 と。
 本当にそうかどうかは即断できません。 しかし……大人たちは天然記念物の棲息地を見事に 「整備」 された公園にしてしまい、子供たちはカブトムシはデパートで買うものだ、と思っているようでは……。
 どこにある自然も、誰が思い浮べる自然も、どれもある意味で 「切り取られた自然」 であって、愛そうにも 「本物の自然」 が見当らない。
 最近は各自治体も公園の整備や博物館の新設に力を入れていると聞きます。 それはそれで素晴らしいことですが、 「本物の自然」 とはまた別ものです。
 否!! 10年ぐらい前、NHKニュースで井上寛博士の20万点にのぼる日本最大の蛾のコレクションが、日本では適切に保管できる場所がないということで、外国の博物館に寄贈しようと考えている、というニュースを聞きました (その後どうなったのか分からないので、ご存じの方はお教えくださいませんか?)
 日本では「切り取られた自然」さえ、まだまだ不十分ではないでしょうか!?


 さて、翻ってもう一度、虫屋の世界です。
 昆虫標本はやはり 「切り取られた自然」 の代表格といえるでしょう。 自然の中から昆虫を採集してきて箱に封じるあたり、そして最悪の場合、箱に並んだ個体の数を競ってしまうあたりなど、やはり昆虫標本は 「切り取られた自然」 そのものでしょう。
 ただし、その一頭の標本が単なる個体にとどまらず、その種を、さらには自然界を代表する一匹である、という意識を持って見るなら、単なる 「切り取られた自然」 にとどまらず、せめて本物の自然に近付くための材料となることもできるでしょう。

 標本は 「切り取られた自然」 に過ぎないなら、写真ならば良いでしょうか?
 否、生命を奪うことの有無を別にすれば、写真だって一種の 「切り取られた自然」 です。 一枚の生態写真を見ても、その背後に広がる本物の自然に思いが及ばなければ、ラベルもなく転がっている一個の標本と何ら変わりはありません。
 別にこれは標本や写真に限ったことではありません。
 カブトムシをデパートで買ったとしても、実際に自然にいる本物はどうか、ということを……動物園の生き物は本当はどこにいるのかを……そして、標本箱に留められた昆虫はどのように生きているのかを……これらを理解できれば、「切り取られた自然」 も決して無駄ではないのではないでしょうか。

 そしてまた、標本には採集したその時を記念写真的にとどめておこう、その採集した自然の一部を 「永遠に」 保存してやろうという、ある種の時間的な超越性があります。
 自然を切り取ることの免罪符にするわけではないですが、自然および採集者個人の一時点の証としての標本、という価値も、もっと認められて良いのではないでしょうか。
 以下の引用は、平凡社のアニマ1985年9月号に掲載された特集 「標本箱 −昆虫の豊かな世界−」 からです(敬称略)。

 「生物の個体はすべて滅びて無に帰するのが自然界の大原則であるのに、この大原則に逆らって、あえて保存された個体が即ち標本である」(澁澤龍彦)

 「どの蒐集家にとっても重要なのは、蒐集品だけではない。蒐集品にまつわる過去の全体までもが重要なのである」(ヴァルター・ベンヤミン)

 「(例えば各地の標本から地理的変異がわかるというような) 客観的な要素とは別に、私的な要素が標本箱には当然あって、自分のそれぞれの箱には誰でも、他人の窺い知れない、自分にしか読み取れないものを納めてある。 かつての自分の時間が封じこめてあるのである」(奥本大三郎)


 私の標本箱で最も古いのは、1979年8月24日採集のシロテンハナムグリです。標本箱写真
 20年後の今日、周りをマンションに囲まれたその場所に、ハナムグリの姿は見えません。 これが即ち、それだけ自然が失われたという客観的要素。 一方私にとっては、これは初めて作製した標本という記念碑的なものです。 生まれて初めての標本が、20年という時を越えて健在なのは、私にとってのささやかな自慢です。

 誤解を恐れずに言えば、少なくとも個人の標本とは、一種の記念写真ではないでしょうか。 標本箱の中に並ぶ標本の一つ一つには、単に昆虫、あるいは自然の一部というだけではなく、二度と戻らぬ 「時」 がとどめられているのです。
 旅先で偶然見つけた昆虫。 友人が持ってきてくれた昆虫。 そして大学時代、その地に住むことで出会えた、さまざまな昆虫たち。
 いずれもかけがえのない、過去の一ページです。 1979年より始まるこのアルバムを、なるだけ一生持ち続けて行きたいものです。 できればその後も、自然の一記録として存在し続けてほしいと思います。 ただし、 「これが前世紀に絶滅した何々です!」 なんてことにだけは、なってほしくないのですが。

1999.01.28