昆虫採集と自然保護
根深い偏見
「子供たちに昆虫採集を!」では、子供にとっての昆虫採集の効果を述べさせていただきました。
研究者にまでなってしまう本格的な人は別格としても、小さい頃に昆虫採集に熱中した人の中には、大人になってからも趣味として続けていく人もいます。
昆虫採集は何となく子供の遊び、というイメージがありますが、実は日本の昆虫研究はこうしたアマチュアの方々によって進んできたと言っても過言ではないでしょう。
ちなみに昆虫愛好家のことをよく 「虫屋」 と呼びますので、ここでもその呼び名を用います。
しかし一方、「子供っぽい」 と思われるだけならまだしも、大人の虫屋に対しては子供の場合以上に様々な誤解・偏見・批判があります。
ちょっと古いですが、1989年8月21日の朝日新聞に掲載された、滋賀県近江町でのオオムラサキ繁殖に関する記事は、もっともひどいと感じたものの一つです。
蝶を育てている人を紹介した記事で、 「物好きな採集者から熱心な保護者へと
“脱皮” した」 と書いてありました。 これはあまりに偏見に満ちた表現だと抗議の投書をしましたが、私の見落としでなければ、何の反応もなかったようです
(私の文章が下手くそだったためもあるでしょうが)。
おそらく記者は軽いシャレのつもりで書いたのでしょうが、たとえ冗談やシャレであっても、それがいかに人を傷つけ、不愉快にさせているかが分からないような人に、社会問題を追求することができるでしょうか。
ついでに言えば、マスコミは蝶の繁殖や放蝶
(育てた蝶を自然に放す) を美談として取り上げるのがお好きなようですが、それまでいなかった種やもともと数の少なかった種を放蝶すると生態系を攪乱してしまう場合もあり、かならずしもいいことばかりとは限らないようです。
虫屋側の責任
言うまでもなく、こうした偏見は虫屋側にも多大の責任があります。
かつて友人と沖縄・八重山へ採集旅行に行った時には、いろいろなタイプの虫屋さんに会いましたが、ある人はオキナワカラスアゲハを80頭採ったと言っていました。80頭!?
そんなに採ってどうするんだ!? それからこんな会話も耳にしました。
「さっきフタオチョウがいましたよ」
「採れますか?」
「いや、高すぎて駄目です」
ちょっと待て! 高かろうが低かろうが、フタオチョウは採っちゃいけないんだぞ!!(天然記念物指定で採集禁止)
某採集ガイドにはこんな文もある。 「数頭でいいなら○○でも得られるが、何しろ小さな蝶なので、数頭では格好がつかない」……何頭の生命を奪うか、という問題が、「格好」という次元で議論されていいのか!?
それから某インセクトフェア (昆虫標本の展示即売会)
をのぞいてみると、ある人の標本箱に 「絶滅間近。いま買わないと……」
などと書いた標本がありました。だったら採るなよ!! まったく……。 本人は冗談のつもりだろう
(値段も適当だったようなので、たぶん冗談だろう)
が、洒落にもならない。少なくとも、普段昆虫に触れていない人が見たとき、冗談とわかるはずもありません。こんなバカなことをするから、偏見に満ちた、くだらない文章を新聞に書かれるのです。
私はこんな人々を弁護する気持ちはさらさらありません。
今すぐ虫屋をやめていただきたいと思っています。
すべての虫屋がこうだ、と思われると、自然を愛する他の虫屋が多大な迷惑を被ります。
そして願わくば、虫屋はみんなこんな連中なのだ、とだけは思わないでください。
保護の実際
現在、日本では幾種かの蝶が天然記念物に登録されています。また、その地方の条例で保護指定されることもあります。基本的に、絶滅危惧種の保護指定は大賛成です。
本当に絶滅が危ぶまれる種は、どんどん保護指定すればいい。
保護指定された種まで採集する虫屋がいたら、断固断罪すべきです。
だいたい昆虫に限らず、本当に危ないのなら、クジラでもマグロでも禁止するべきです。 ただし、本当に危ないのなら。
そして、本当の意味で保護してください。
採集の禁止だけでは保護にはなりません。 指定するだけしておいて、その生息地が開発されてしまえば何の意味もありません。
採集を禁止したあとで、開発などで姿を消していった例は枚挙にいとまがありません。
また、ある地域でだけ保護指定すると、よそから来た人にはそのことがなかなか分かりません。
「ここでは何々を保護指定している」 ということを、もっと分かり易く、広くアピールしてください。
なぜ保護しなければならないのか、きちんとしたデータを集めてください。
そのためにこそ、その生き物のことをもっともっと知るべきではないでしょうか。
キマダラルリツバメという蝶がいます。翅の裏には黄色地に黒いまだら模様がある、せいぜい3センチぐらいの小さな蝶です。
昭和9年5月、鳥取の生息地が天然記念物に指定されました。
日本鱗翅学会の機関誌 「やどりが」 107,108号
(1982年) には、鳥取のキマダラルリツバメについて、こんなエピソードが掲載されたそうです。
「先日、所用で久しぶりに鳥取市へ行くことがあり、駅近くのホテルへ泊まったときのことである。なにげなく置いてあったパンフレットの観光案内図を見て驚いた。
なんと特別指定天然記念物のキマダラルリツバメを鳥と勘違いしてヤマグラルリツバメ生息地と書き、ごていねいにも立派なツバメの絵が描かれていた。
こんな有様では樗谷(おうちだに)の発生地もいい加減なものだろうと所用を済ませて出掛けてみた。
なんと、昔の深い樹林に覆われた発生地は見事に整備された公園になっており、「天然記念物キマダラルリツバメ発生地」と書かれた立派な掲示板が空虚にぶら下がっていた。
公園の中にある建物の管理者を捜しあてて、キマダラルリツバメはどの辺にいるのか尋ねてみたところ、小さい人工池のほとりにポツンと一本生えている元気のない桜の大木をさして「あの木にいる」と教えてくれた。
あたりは玉砂利、芝生と人の手になる環境で、とてもキマダラルリツバメが棲んでいる気配はなかった。どうやらもともとこの木で発生していたようで、この木を切らずに置けば蝶は保護できるということになったらしい」
しっかしツバメの絵とは…。いったい自分たちが何を保護しているのか、分かっていないのではないでしょうか。
1998年2月、長野冬季オリンピックでは幾つものドラマがあり、日本中が盛り上がりました。
このオリンピックでは環境に配慮するとかで、コースのいちばん上をどこにするか揉めていたようです。
このオリンピックが長野に決まったのは1990年代に入ってからだったと思います。
「楽しい昆虫採集」(奥本大三郎・岡田朝雄 朝日出版社,1991年)
によると、白馬村にはイエローバンド型ギフチョウという珍しい蝶の産地がありました。
ところが、まだ長野と決定されない内から、そこに大規模なゲレンデが造成されてしまったそうです。「かくして天然記念物指定は残り、蝶は消えた」。 保護指定しておきながら、いったい何のための指定だったのでしょうか。
採集禁止ではなく、コントロールを
かつて沖縄へ行ったとき、あの擬態で有名なコノハチョウに何度も出会いました。
コノハチョウは天然記念物に指定されているので、もちろん採集はできません。
普通、天然記念物に指定されているということは
「珍しい」 という印象を持たれるのではないでしょうか。
ところが意外にも、あちこちで何頭もが、手を伸ばせば届きそうなところを舞い続けるのです。
例えばですが、これほどたくさんいるなら、仮に1頭だけ採集してもこの地域のコノハチョウ個体群に与える影響は少ないかも知れない。
しかし、一人で同じ種を何十頭も採る貪欲な気違い虫屋にかかれば、こんなに近くをゆっくり飛ぶ蝶はたちまち採り尽くされ、少なくともこの地の個体群は絶滅の危機に瀕するに違いないでしょう。
本当にあとわずかしか存在していないような種類は、もちろん全面的に採集を禁止し、それと同時に生態系を守るため一切の開発も禁止されなければなりません。 しかしまだまだたくさんいる種類に関しては、一人あたり1、2頭以上は絶対に採集しないのなら、そんなに厳重に禁止するほどではない場合もあるのではないでしょうか。
つまり、採集は是か否か、という二者択一ではなく、それぞれの状況に応じた採集のコントロールが必要なのです。
しかし、残念ながら行政は採集イコール禁止という発想しか無い。
もちろん一人が何頭採ったか監視することはまず不可能だし、採集者のモラルの問題もあります。
1992年に石垣島を訪れた時、民宿で竹富町の教育委員会の方と一緒になりました。
その時伺ったお話によると、当時竹富町は蝶の採集を禁止しようとしており、その最大の理由は採集者のモラルにあるとのことでした。
もしも自然保護が理由ならいくらでも反論できますが、モラルが原因では全く反論の余地はありません。
なぜなら、たとえそれが一部だったとしても、要するに悪いのは一方的に虫屋サイドなのですから。
しかし、やはり行政と虫屋は手を取り合うべきです。
虫屋にとっては行政によるコントロール、つまり悪質な虫屋の排除と最小限の採集の保障が必要だし、また行政にとっては虫屋の知識が必ずや保護に役立つはずです。
ところが、蝶についての立派な研究・調査が行なわれても、発表されると貪欲な虫屋がわっと集まって乱獲が引き起こされるといいます。
これでは行政と虫屋が理解しあうのは不可能です。
一時期に比べれば、虫屋側の姿勢も世間の偏見も最近はだいぶ変わってきたという声も聞きます。
この流れを押し進め、行政と虫屋が協調することこそ、誰にとっても最良の方法であると確信しています。
ただ単にムシが好かない?
昆虫採集の理屈は分かった。 それでもなお、虫屋はムシが好かん、という人もいるかも知れません。
ならば仕方ありません。 ものの好みは人それぞれ。
お互いに迷惑をかけない限り、互いの存在を認めあおうではありませんか。
私はプロ野球は興味ないし、タバコも吸いません。
ただ他の番組を押しのけたり、周りの人に煙を吸わせることさえなければ、お好きな方はどうぞご自由に、と言うだけです。(毎週見ている番組が野球中継でつぶれると、ホントがっかりするんですけどね。野球専門のチャンネルができてくれないかしら?)
あるいはムシは気色悪い、という人も多いでしょう。
かつてさる動物番組で、シャーレに入ったムカデを見たあるアイドルが
「かわいい!」 といって手を伸ばしたのには、いくら虫屋でも仰天させられました。
わたしゃ多足類は苦手 (まったくの余談ですが、かの手塚治虫大先生も、昆虫少年であったにもかかわらずクモが苦手だったとか)。
それでも、それがその人の好みなら、他人が口を挟む道理はありません。
結局「子供たちに昆虫採集を!」と同じ結論になっちゃうんですが……たとえ好みが違っていても、
「自分とは違う興味、趣味、考え、価値観…これらを認めることが、多様化や国際化の進むこれからの社会にとって必要不可欠」
だと思うのですが。
もちろん何度も強調するように、虫屋側にも多大な責任はあります。 それらを是正するとともに、どうか一方的で感情的な偏見や誤解という垣根を取り払い、様々な人が、それぞれの方法で自然を愛し、守ってゆく (本当はちっぽけな人間が自然を
「守る」 なんて、おこがましいこと甚だしいのですが)
方法を見いだしていこうではありませんか。
1998.12.01 掲載
2004.12.25 誤記修正