子供たちに昆虫採集を!
その昔、昆虫標本は夏休みの宿題の定番だったように思います。
といっても私が小学生だった1970年代には、もうそんな宿題はありませんでしたが。
皆さんはいかがでしたか?
「ハンドルネームについて」で書きましたように、私はいわゆる昆虫少年でした。
小学生の頃から近所で昆虫採集を始め、地方の大学へ行った頃、もっとも本格的に熱中していました。
いつの頃からか世間では昆虫採集は流行らなくなり、嘘か誠か、子供が学校へ標本を持っていくと若い女の先生が
「何て残酷なことするの!」 と悲鳴を上げては子どものせっかくの努力を否定するとか。でも、そんな先生もゴキブリやハエは憎しみを込めて叩き潰すだろうに、勝手なものです。それから残酷といえば、
活け造りや躍り食い、これほど残酷な行為があるだろうか、と思うのですが。
そして子供たちは、カブトムシはデパートで買うもので、死んだら
「電池が切れた」 などと思ったり、あるいはオオクワガタが1センチ大きいと何万円、なんて夢のない基準に奔走したり……。
環境問題が深刻化し、自然保護が緊急に求められる今日、自然に触れた経験がなければ、本当に自然を愛することができるのでしょうか。
命の大切さを、実感として持つことができるのでしょうか。
「自然と触れ合った感覚や体験がなくては、いくら自然を大切にしなさいと言っても分からない」
(奥本大三郎;朝日新聞・1991年9月30日)
自然に触れるにも、いろいろな方法やレベルがあります。
例えばペットを飼ってもいいでしょう。 近年流行のアウトドアもいいでしょう。
バードウォッチングでもスキューバダイビングでも、いやいや、ただの山歩きや海水浴でも、どんどん経験した方がいい。
そして、昆虫採集もまた子供たちが自然に触れる非常に良い手段であると確信します。
高いお金を出して買ってくるペットでもなく、高価な装備を買い揃え、ともすれば文明生活をそのまま持っていくだけに陥りがちなアウトドアでもなく、昆虫というのは、ごく身近なところにも
あるがままの自然として、そこにいるのです。
しかし残念ながら、昆虫採集に対しては多くの誤解、偏見、批判があるのも事実です。
確かに虫屋 (昆虫採集に熱中する大人たち)
の側にも問題があることも確かです。 ここではまず、大人たちではなく、子供たちにとっての昆虫採集を論じたいと思います。
批判その一。 冒頭に書いたように、昆虫を捕まえて標本とすることを残酷だという、純粋ではあるが対象の偏った
「生命尊重論」。 もちろん 「かわいそう」
という気持ちはとても大切です。 では、最初から生き物に接することなく、この
「かわいそう」 という気持ちは芽生えるのでしょうか?
昆虫採集に限らず、たとえばペットを飼っていたとしても、いつかは死にます。誰でも
「かわいそう」 と思うでしょう。 生き物が死ぬという経験は、子供にとって非常に貴重な経験ではないでしょうか。
子供たちは本能的に、小動物に対してずいぶん残酷なこともします。
これらは禁止されるべきことでしょうか?
「かわいそう」 だから手を出してはいけない、ただ遠くから見るだけ、と禁止してしまうと、子供たち自身に
「かわいそう」 という気持ちが実感として芽生えるでしょうか?
一度も触れたことがない生き物に、どれほどの愛着が生じるでしょうか?
私たちが食べる肉類は、もとをただせば一個の生き物でした。
野菜や果物は、農薬によって多数のちっぽけな虫たちを虐殺して生産されています。
高速道路やゴルフ場、よく整備された公園などは、その土地にいた無数の生命の犠牲の上に造られています。
現代の私たちはそうした生き物たちの悲鳴から遠ざけられ、聞かずに済む社会に生きています。
もちろんこれらの犠牲は、必要なことなのでしょう。
何かを食べなければ生きていけないし、開発も無駄が多いとはいえ、すべてをやめるわけにもいかないでしょう。
たとえばある日、近所の裏山が伐採されたとしましょう。
そこに行ったことのない子供は、何も感じないでしょう。
しかし、昆虫採集に限らずそこで遊んだことのある子供たちは、きっと悲しむでしょう。
その気持ちこそが、将来自然を愛し、命を思いやる心へとつながっていくのではないでしょうか。
批判その二。 「ただでさえ自然が少なくなってるのに、子供たちが採集したらもっと減るんじゃないの!?」 これについては大人の責任が大きいと思いますが、大人の責任については項を改めて別に論じたいと思います
(
「昆虫採集と自然保護」にて)。
さて、まず採集によって本当に昆虫は減るでしょうか? これには
「採集ごときで昆虫は減らない。 開発による自然破壊の方がはるかに重大だ」
という意見と、
「いや、自然破壊で減っている時代だからこそ、わずかの採集でも響くのだ」
という意見があります。
これはどちらが正しいのでしょうか。 どちらも正しいのです。
ただし、ある点を区別せずゴチャゴチャにしてしまっているので、正反対の意見になってしまうのです。
もしも
採集によって昆虫が減るのなら、これほど安全な害虫駆除法はないでしょう。 農学上は 「捕殺」 といって、立派な駆除法の一つとして挙げられています。
実際、種類によっては効果もあったそうです。
しかしモンシロチョウのように繁殖力旺盛な害虫を採集で駆除するのは、まず不可能ではないでしょうか
(ご存じでしょうが、害虫なんですよ、モンシロチョウって。
まさか青虫は踏みつぶしてもいいけど、蝶になったらもう捕っちゃだめなんて……そんな矛盾したこと、言いませんよね?)。
一方、もし仮に天然記念物に指定されているような数の少ない種類を、皆が眼の色を変えて追い回せば、そりゃあ数が減るどころが絶滅してしまうでしょう。
つまり、
繁殖力旺盛な種類と
減りつつある種類を同列に扱ってしまうと、上のような正反対の意見が出てくるのです。
大人の虫屋の中には、数の少ない珍蝶ばかり追い回し、記念物指定されている種さえ採集し、こっそり売りさばいたりする極悪非道人も確かにいます。
彼らを擁護する気は微塵もありません。 彼らのおかげで、その他大勢の虫屋が多大な迷惑を受けているのです。
しかし子供たちには、そんな雑念はありません。
大学の頃、ある新聞社の依頼で、いわゆる夏休み親子教室のようなイベントに昆虫採集の講師として参加したことがあります。
この時、昆虫採集に熱中する子供たちを見て、はっきり感じました。
「子供たちにとっては、珍蝶もありふれた蝶も、同じ感動をもって迎え入れられる」ということを。
子供たちにとっては、目の前を飛ぶ蝶が数の少ない珍蝶かありふれた蝶かは関係ない。
どちらであろうと、
同じ自然界の一員なのです。 子供たちには変な雑念はないので珍蝶ばかり追い回すわけではないから、珍蝶や数の少ない種類と出会う確率はきわめて低い。
無心に採集に熱中する子供たちによって昆虫が減ることはない、と断言できます。 むろん変な欲を抱いた大人が手を出せば別ですが、それはまた別問題であり、子供の責任ではありません。
(しかし、オオクワガタに関してはどうして体長によって何万円、なんて異常なことになったのでしょう? 子供までが札束を手に狂奔する光景には、身の毛がよだちます)
子供たちが自然と触れ合うのに、昆虫採集こそが他の何より良い方法だ、とは言いません。
ただ、昆虫採集もまた良い方法の一つであることだけは、ご理解いただきたいと思います。
子供たちが昆虫に興味を示さなければ、もちろん強制する必要もありません。
ただ、少なくとも子供たちが昆虫に興味を示したとき、周りの大人が
自分の価値観(好み、偏見)だけで一蹴することだけは無いように、と願わずにはいられません。 そして子供たち自身も、他の子供たちが昆虫採集をしているとき、自分は興味ないからと偏見を持つような人間にだけはなってほしくありません。
そのためにも、すべての人々に昆虫採集にもいいところがあるということを理解していただければ幸いです。
大風呂敷を広げれば、自分とは違う興味、趣味、考え、価値観……これらを認めることが、多様化や国際化の進むこれからの社会にとって必要不可欠なことだと思っています。
いろいろ大それたことを書いてきましたが……少なくとも、一日中パソコンやゲーム機の前に座っているより、網を手に外を走り回る方が健康的ということだけは確かだと思うのですが、いかがでしょう?