第1回 学名とは


「前書きでも言うたけど、わが Nature Center のコンテンツの中でも、ところどころ生き物の名前の後ろに横文字が並んどるやろ? あれが学名や」
「それで、そもそもその学名ってのは何なんでぇ?」
「ええかげんなこと言うわけにもいかんし、文献を引いてみまひょか。 岩波生物学辞典・第3版(1983年)で『学名』を引くと、こう書いてある。
『生物の群が決定された時、それを示すために与えられる名で、国際的な命名規約でその選択や形式は規定されている』………」
「もうちょっと噛み砕いた方がよくない?」
「生き物一種一種に付けられた、国際的に通用する名前ってことやね。 日本語の名前を外国人に言っても通じんが、学名なら世界共通というわけや」
「てぇことは、どの生き物にも学名があるってことかい」
「そうそう。 人間のことをよく『ホモ・サピエンス』ちゅうやろ。 人間を生物種の一つとしてみたとき、その人間という生き物につけられた学名が『ホモ・サピエンス Homo sapiensというわけや。
 ただし、生き物ゆうてもバクテリアとか熱帯雨林の奥深くの小昆虫なんぞは次々と新種が見つかるやろ。 そんな新種は、名前が決まるまでは名無しということにはなるんやけど」
「誰が新種の学名を決めるんでぇ?」
「発見者、または同定者ってとこかな」(ある生き物がこの種類である、ということを明らかにすることを「同定」という)
「その時好きな名前を付けることができるから、学名には好きな人の名前を付けたり、偉い人の名前を付ける『献名』も多い」
「学名に自分の考えた名前が付きゃあ、そいつぁ面白いかもな」
「生物学者の夢の一つやろな。 動物とは違うが、アジサイなんか有名やね。 アジサイの学名は、1823年に日本にやってきた医師シーボルトによって付けられた。 Hydrangea Otaksa (現在の学名はHydrangea macrophylla) という学名のOtaksaってのは、シーボルトが愛した遊女、お滝さん(本名:楠本滝)から付けたと言われとる」
「ふーん、いい話ねー」
「ただしなあ……日本の植物学のさる大家は、遊女の名前を付けられたアジサイが可哀想だとか何とか、かつて言ったらしいが……」
「それってすっごく差別的じゃない」
「俺もそう思うが、その大家の発言も古い時代の価値観の話やから仕方ないんやろな。 学名の多くは古い時代につけられたもんやから、時代が変わったり歴史的な事柄が絡むと、また見方も変わってくるんやろね。
 日本蝶類愛好会『日本の蝶・世界の蝶』(保育社,1970年)にはこんな話も載ってる」

「南米に棲むフクロウチョウの仲間にナポレオンと名付けられた蝶があるが、この蝶はナポレオン1世の肖像のように猪首で、頭が胴にのめりこんだような感じのするもので、うまく名付けたものだと感心する。 しかし翅の色や形は薄汚れた、何の変哲もない蝶で、命名者がイギリス人とあっては、百年戦争の恨みの名残か……と勘ぐるのも、あながち考えすぎでもないような気がする」

「ん? 百年戦争ってナポレオンの時代か?」
「歴史はナミちゃん、頼むわ」
「ええと……百年戦争(1339〜1453)。 英軍の仏領上陸に端を発する英仏の戦争。 末期に仏側が巻き返して終戦。 ほら、あのジャンヌ・ダルクが活躍した戦争よ。 ナポレオンとは時代が違うけど、百年戦争で負けた恨みから、後のフランスの象徴になるナポレオンについて、意地の悪い命名をしたのかも……ってことね?」
「この命名がほんまにそうかどうかはわからんけどな」


「しかし、普段は学名っつーても、あまり馴染みはねえなあ」
「そうやろな。 けど、誰もが学名で呼んでる生き物もあるで」
「ほー?」
「例えば、恐竜のティラノサウルスは知ってるやろ? あれは学名なんや。 ステゴサウルスもブラキオサウルスも、カタカナの恐竜名の多くは学名やと思ってええ。 フタバスズキリュウとかフクイリュウみたいに、明らかな日本語が付いている − つまり、日本で発見されたとか日本人が関わった恐竜は例外やけどな」
「ねえねえ、恐竜って大昔に絶滅した生き物じゃない。 それにも学名って付いてるの?」
「そうや、今もいるかどうかには関係なく、この世に存在したことのある生き物には全て付けられるものなんや。
 あと話題になった学名といえば、ヘリコバクター・ピロリなんて聞いたことあらへんか?」
「胃癌の原因じゃないかって週刊誌なんかによく出てるわね」
「うん、こいつは胃の粘膜に食いこんどる細菌で、胃癌とか胃潰瘍に関係する可能性がある、と言われてるね。 それでや、このヘリコバクター・ピロリ Helicobacter pylori というのも学名なんや。 雑誌なんかでは『ピロリ菌』て呼んでるけど、それは学名の一部なわけやね」
「ヘリコ……ヘリコプターみたいじゃねえか」
「いや、その通りなんや。 ヘリコバクター・ピロリを電子顕微鏡で見ると、4〜6本の鞭毛を持っていて、それがまるでヘリコプターのローターみたいやから、この名前になったそうや」
「割と単純なのねえ」
「学名でも由来がわかると面白いものも多いで。 それからほれ、1999年に佐渡島でトキが生まれたやろ。 その時よく話題になってたはずや、トキの学名」
「ははあ……ニッポニア・ニッポンじぇねえか、確か」
「当たり! これから先トキが復活しようがいなくなろうが、あるいは他にどんな生物が新発見されようが、未来永劫『ニッポニア・ニッポン Nipponia nipponていう生き物はあのトキだけなんや」

1988年5月発行のテレホンカード。
珍しく学名だけが記されています。


「つまり、学名の世界では同姓同名はありえないってことだぁね」
「そう、そのために − つまり、ある生き物を世界中の誰もが誤解なく区別できるように、その生き物に対して専用に付けられる名前なんや」
「しかしなんだねえ、『ニッポニア・ニッポン』という名前を持つ唯一の生き物が、その日本で絶滅間近ってのも悲しいじゃねえか」
「まったくやな。 これまでの世の中が『時は金なり朱鷺はおざなり』すぎたってことやね」
「おあとがよろしいようで……」
「新しく生まれたヒナちゃんに期待しましょ」

2000.05.11