一九九九年七の月……(後編)

 ノストラダムスによって 「予言」 された1999年の 「恐怖の大王」 には、前編で記しましたように様々なものが想像されてきました。またノストラダムスと関係なく、特にキリスト生誕2000年の 「大聖年」 のように1999年〜2000年あたりを宗教的な大きな節目と見なす風潮を絡めたものも、海外SFなどではよく見受けられます。
 さて、後編ではこの1999年を舞台にしたSFに注目してみたいと思います。SFでは 「恐怖の大王」 が描かれているでしょうか…?

 故カール・セーガン博士の「コンタクト」は映画化もされ、ご覧になった方も多いのではないかと思います。26光年離れたヴェガから異星人のメッセージが届き、それに基づいて作られた乗り物で主人公が出発(映画では一人ですが、原作では5人)する……というものですが、この出発が1999年の大晦日なんですね。
 原作と映画ではニュアンスが違うのですが、この作品でも 「宗教」 がキーワードの一つになっています。前述のように宗教的に割と注目される2000年、そんな年の前年、ということで象徴的に1999年を舞台としたのでしょう。
 セーガン博士の原作は、日本についても割と調べて書き込んであるな、と思うのですが、映画では日本の描き方がとっても不満。いずれ、別稿で取り上げたいと思っています。
 さて、異星人のメッセージに従って旅立った主人公ですが、客観的な証拠が何一つ持ち帰れず、本当に旅立ったのかどうか信じてもらえない状況に陥ります。映画ではそのまま尻窄みに終わりますが、原作では最後に驚くべき証拠が発見されます。
 科学者の本領発揮というか、これこそSFの醍醐味というか、ともかく見事なエンディングだと思います。正直なところ原作の文章は読みにくさも見受けられるのですが、ラストの「大団円」(← お読み頂くと分かりますが、これもひっかけです)には感嘆しました。多少読みにくい面もありますが、一読をお勧めします。

「未来人カオス」(少年マガジン1978年4月16日号〜1979年1月1日号)は、実は私が初めて接した手塚治虫マンガでした。
 199X年、国連宇宙開発推進機構が設置した銀河総合アカデミーを目指す、二人の若者を中心とした物語です。「神」 と 「悪魔」 の、「友情を完全に消し去ることが出来るか?」 というとんでもない実験のサンプルとなってしまった二人の若者は、それぞれ数奇な運命を辿っていきます。片や、友情を失った冷酷無比な官吏へ。片や、囚人星に流されながらも、数多くの異星人と友情で結ばれた宇宙商人へ。そして20世紀の終末、二人は地球で相まみえることになります。
 このクライマックス 「第19章 20世紀の終末にて」 は、こんな言葉で始まっています。

「おりしも地球は21世紀のはじめを迎えようとし、世界は有頂天でお祭り騒ぎを繰り広げていた。それは、狂乱の20世紀がやっと終わったことへのタメ息にも似ていた。そして21世紀が人類にとって何とぞ……といった祈りの叫びでもあった。どうにでもなれというヤケクソなバカ騒ぎでもあった」

 そうか、21世紀直前と言うことは、2000年末なんだな……と思うのですが、その数ページ後で、テレビがこんな言葉を喋っているのです。

「……しばらくの間、1999年はアーマゲドン、つまり世界の終わりの日などというウワサがありました。聖書にそう予言しといたというのです……しかし、何事もなくついに世界は21世紀に突入したのです。次の百年、いや千年の間に人類はどうなるでしょうか。はたして繁栄か……それとも死か……」

 弘法も筆の誤り、手塚治虫先生もうっかり1999年を20世紀最後の年としてしまったようですが、それはこの作品の価値を何ら下げるものではありません。また発表時点では20年以上未来であったという点も、留意すべきでしょう。あるいは、暗い世紀末から明るい(かも知れない)新世紀への移り変わりの象徴として、承知の上で1999年を21世紀最初の年とされたのかも知れません。
 「未来人カオス」 のラストには 「第一部 完」 という言葉が見られます。第二部以降の構想がどうなっていたのかは永遠の謎ですが、第一部は見事なラストで締めくくられています。文字通り無数にある手塚作品の中で私が一つだけ挙げるとすれば、迷うことなくこの 「未来人カオス」 を挙げることにしています。

 「火の鳥・太陽編」(「野生時代」1986年11月号〜1988年2月号)は手塚治虫先生のライフワーク「火の鳥」の最後となった作品で(「完結編」と紹介されることがありますが間違い)、近未来と古代、二つの世界で同時並行的にストーリーが展開していきます。
 21世紀初頭、日本は“光”という宗教組織に支配され、人々は“光”を信じる者と信じない者に二分され、信じない人々は全て“影”と呼ばれて地下へと押し込められていました。その異常な世界のきっかけとなったのが、1999年に起こった事件でした。
 1999年、人類はすでに宇宙ステーションを建造し、金星へも有人探査機が向かっていました。ところがその探査機が宇宙空間で火の鳥を発見。火の鳥は地球へと運ばれ、火の鳥の不老不死の力を崇める“光”という宗教組織が生まれたのです。ただし、その後この「火の鳥」は偽物であることが判明し、“光”を倒す戦いが始まるのですが……。
 現実の1999年では、確かに有人探査機が金星へ向かうほどには宇宙開発は進んでいません。しかし1998年には現実でも宇宙ステーションの建造が始まりました。現実の方がやっと追いつきつつあると言えるでしょう。
 そしてもう一つ、宗教組織に支配された世界という設定は、現実に登場したいくつかの異常な宗教団体を思い出さずにはいられません。1980年代後半、未だバブルの余波が残っていた頃に発表されたことを考えると、「太陽編」 は驚くべき先見性の高さをもった作品といえるかも知れません。来るべき21世紀、「太陽編」に描かれたような異常な宗教団体が幅をきかせることのないよう、私たち一人一人が気を付けねばならないでしょう。

 「機動警察パトレイバー」(ゆうきまさみ)も、ほぼ1999年前後を舞台にしています。しかし、別に世紀末の危機感も新世紀の興奮もなく、ただ普段と同じ日常(ちょっと変わった日常ですが…)が続いていきます。その意味で、とても現実的な1999年かも知れません。
 ただし「THE MOVIE 1・1999 TOKYO WAR」はその題名通り、1999年を意識したものとなっています。何しろ登場する犯人の名前が「帆場英一」。ローマ字表記すると、「E. HOBA」……エホバ。もちろん宗教的にはエホバという表記は誤りでヤハウエが正解なのですが、作中でもそのことが一つのカギになっています。
 余談ですが 「パトレイバー」 ではJR新宿駅ビル、紀伊国屋書店、上野の国立科学博物館などが画面の端々に登場し、感激したものです。でも東京の方はご存知と思いますが、新宿駅ビルや国立科学博物館前のクジラ像は、今では変わってしまいました。フィクションの1999年と現実の1999年との隔たりは、それだけ時の流れを実感します。歳とったなあ……(笑)
 それと、映画版第3作は沖縄独立の話になる予定だったとか。是非、ぜひ観たかったものです。

 「1000年女王」(松本零士;産経新聞1980年1月28日〜83年5月11日連載,1981年4月〜82年3月TV放送)では、1999年9月9日に遊星ラーメタルが地球に接近、その危機から逃れるために世界中の主要都市を岩盤ごと持ち上げてしまうという、すさまじいエクソダスが敢行されます。ラーメタル最接近によって、地球は大陸の形が変わってしまうほどの被害を受けてしまいます。
 被害のスケールからいうと「恐怖の大王」にふさわしいすさまじさです。しかしスケールと言えばもう「マップス」(長谷川裕一)が最大ではないでしょうか。
 1986年、異星人の宇宙船(リプミラ号)が突如地球に現れるところから物語は始まります。この時、その宇宙船で宇宙へ飛び出すことになってしまった高校生が主人公なのですが、一方の地球では、

「リプミラ号の降臨事件以来、宇宙文明の存在を知った地球も、そりゃもう大騒ぎでな。外敵に対する恐怖から意外とすんなり超大国は手え結ぶし、ベルリンの壁はなくなるは、ECは統合されるは、91年の中東のゴタゴタを最後に地球連邦が成立、今や地球の国同士の戦争なんぞ完全になくなっちまった!」
(ちなみにこの言葉が載っている単行本第9巻は、1991年5月発行。あの湾岸戦争の後で本当に地球連邦が成立してたら、どんなに良かったことか)

 そして1999年。銀河系の伝説に語られる地と見なされてしまった地球は、銀河諸勢力の注目を浴びることとなり、それぞれの思惑を持つ銀河の二大勢力の大艦隊が、地球を挟んで対峙します。その数、なんと100億隻以上!!
 さらに伝承族という銀河諸種族を影で操るような連中が登場して、両軍とともに地球を葬り去ろうとしたり、武器商人や秘密結社の億単位の艦隊、惑星サイズの超巨艦まで参戦。地球近傍で銀河の存亡を掛けた大宇宙戦争が繰り広げられます。しまいには地球と同じぐらい巨大な仮面(伝承族の姿)が地球へ衝突しようとして、その重力の影響で地球中が荒れ狂う大変動に見舞われてしまいます。可哀想なのは地球人で、身に覚えのない伝説が元で異星人の戦争に巻き込まれるのだから、たまったものではありません。
 結局、二大勢力が手を組んで伝承族を倒すことに成功し、地球も救われるのですが……

「放射能の心配はないけど、むこう2〜3年異常気象が続きそうだってさ」
「あ、そう」
「この大騒ぎで2億人ぐらい死んだって!」
「まー地球の最後だって騒いでたんだ。そんなもんですみゃあ上等だろう」
 なんか知らんけど、地下シェルターから出てきた人々は、とっても呑気にこんな会話を交わしてます……。
 独断と偏見により、SF界の「恐怖の大王」はマップスに語られる大宇宙戦争に決定!

 1999年を舞台としたSFはもっともっとあると思うのですが、ここまで見てきてふと気付いたことがあります。
 これらの作品は確かに1999年を舞台としており、世紀末、あるいは宗教的節目がキーワードになっています。ところが、明確に7月または8月を舞台にしてはいないんですよね。また、これこそが「恐怖の大王」である、といったものもありません。
 SFにおいては、ノストラダムスはあまり重要視されてこなかったのでしょうか?
 実は、本稿前編を書いた後で「空想歴史読本」(円道祥之・著、メディアファクトリー,1999年)という本を見つけました。この本にも本稿と同じように 「空想歴史」 における 「恐怖の大王」 は何か? という章があります。

「それにしても、せっかくの99年がパッとしないのはなぜか? ひょっとしたら、空想歴史には『恐怖の大王』なんて存在しないのではないか?
 ― 実はそうだろうと筆者は考えている。
 本章で紹介してきた事象は、もちろんどれも実際に起これば一大事である。怪獣だって本当に出現すれば、充分に『恐怖の大王』であろう。しかし空想歴史では、宇宙から侵略者がやってくることなど日常茶飯事。(中略)もう誰も驚かないのである。
 こういう凄まじい日常を生きている空想歴史にとって、人類滅亡の予言など取るに足らない些細なことだったのだろう……」

 些細なこと、と言ってしまっては少々語弊がありますが、考えてみれば 「恐怖の大王」 として挙げられたものは、1999年以外の舞台でも数多く描かれているのは確かですね。「取るに足らない」 ことでは決してないでしょうが、(空想歴史やSFにとっては)ありふれたこと、と言えば納得の出来る視点ではないでしょうか。
 「恐怖の大王」 第一候補は古くから核戦争が挙げられましたが、意外なことに1999年核戦争勃発、というSFはあまり見かけません。数えたわけではないのですが、核戦争ものは1970〜80年代に集中しているようで、199X年勃発、というのは比較的最近の作品に多いような気がします。つまり、70〜80年代が過ぎつつあったためそれよりも未来にずれたということで、ことさら90年代を意識したものではないようです。
 それだけ、核戦争の危機というものが身近で現実的だったのではないでしょうか。1999年という遠い未来よりも、核戦争の方が明日にも起こるかも知れないという危機感があったということでしょう。実際、多くの戦争・紛争で核兵器の使用が検討され、核にまつわる事故もいくつも現実に発生していたことは、紛れもない事実です。

 いよいよ2000年、第2ミレニアムが始まり、そして未来の、SFの代名詞ですらあった21世紀もあとわずか。今や私たちは、SFに描かれた世界に生きています。これまで空想でしか語られることのなかった21世紀へ、私たちは踏み出そうとしています。もちろんだからといって、突然何かが変わるわけではありません。変えるのは私たち一人一人の権利であり、また責任でもあると言えるでしょう。明るいSF、暗い予言、現実的予測、荒唐無稽な空想……その中からどれを 「現実」 として選ぶか。どうせなら、明るい現実を指向して頑張ろうではありませんか。

「一九九九年七の月……(前編)」へ