一九九九年七の月……(前編)

 いわずと知れた、ノストラダムスの有名な四行詩の冒頭です。
 1999年7月は少なくとも世界規模の大事件もなく、またノストラダムスの時代は太陰暦だったから、今の暦法にすると8月だとも言われてましたが、その8月も特に大禍なく過ぎちゃいましたね〜。
 なんちゃって、別に私自身「予言」を信じてたわけじゃないし、予言そのものをどうこう言うつもりはありません。ただ、この「予言」のおかげもあり、1999年という年はSFの格好の舞台となったことは確かでしょう。

 おさらいがてら、数々のSFに舞台を提供したノストラダムスの例の詩を、まずは概観してみましょう。
 諸世紀(というのは誤訳で「百詩集」が正しいとも言われる)第10巻72編。


「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる。
 アンゴルモアの大王を復活させるために。
 その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに
 支配に乗り出すだろう」
                     (五島勉訳)

 しかし。
 一説では、この詩の訳は、こうなるそうな。

「1999年多分3月までの7ケ月の間、空から金遣いの荒い大王が現れる。
 フランソワ一世のような王様が蘇らせ、運よく支配するために」

 ………私ゃフランス語は分かりませんので、なんでこんなに食い違うのかは訊かないで下さい。これは読売TV「特命リサーチ200X」という番組の、1999年2月28日放送で紹介されてたものです。
 かつて、これは1999年人類滅亡の予言だと言われてましたが、どちらの訳にせよ読めば分かるとおり「滅亡する」とは一言も書いてません。おまけに「その前後の期間、マルスは……」とありますが、滅亡するんなら「後」があるわけがない。
 「滅亡」になっちゃったのは、一つにはこんな経緯でしょうか。

 1999年、何か分からんが大事件が起こるらしい → 大事件とは戦争ではないか? 「マルス(=軍神)」という言葉があるし… → 戦争と言えば、核戦争ではないか? 空から降ってくるミサイルは「恐怖の大王」にふさわしい → 核戦争が起こったら、滅亡するしかないじゃん!(かつては大量報復戦略が常識だった)

 てな具合で、原文をあまり吟味せずに、みんな短絡しちゃったためかも知れません。中には、局地的核戦争は起こるが滅亡するわけではない、と早くから主張する本もあったのですが。
 例えば核戦争を例に挙げましたが、考え得る危機の種類はもう枚挙にいとまがありません。1999年に降ってくる「恐怖の大王」として考えられたものを列挙してみましょう。中には胡散臭いもの、ちょっと時期が違うんでないかい? てのも含まれますが、とにかく列挙してみました(別にこれを本気にしてたわけではないので、誤解しないで下さいね ^^;)。

世界大戦説
 全面核戦争、核を越えた新兵器、“人種”戦争、宇宙戦争(レーガン政権は結構本気でスターウォーズ計画をぶちあげていた) etc, etc……

天体落下説

 隕石、小惑星、彗星、人工衛星などの人工天体(土星探査機カッシーニは話題になりましたね) etc, etc……

環境破壊(と、それによる自然災害)説
 光化学スモッグ、酸性雨、オゾン層破壊、宇宙線、紫外線、氷河期、温暖化、巨大地震、火山噴火、ポールシフト(極移動とか極ジャンプとも言う) etc, etc……

侵略説
 異星人、未来人、人類以外の生物(ウイルスなど)、新人類(超能力者とか……中には宇宙ステーションで育った新世代、というのまであったな) etc, etc……

内面的危機説
 人心荒廃、社会の退廃、出生率低下、西欧技術文明の限界(環境破壊もこの一つかも知れない)、コンピュータ関連(Y2K、ハッカー、その他トラブル)、独裁者の台頭、etc, etc……

 まあご覧の通り、これまでにSF作家が苦心して考え出してきた破滅テーマがすべて総動員されたような感じです。この一個一個で、「SFつれづれ帳」1コンテンツ分のネタになりますなあ。
 このように百花繚乱なあたり、胡散臭いのも含めて「何でもあり」的な混沌さは、恐竜絶滅の原因と似ているような気もします。


 さて。
 ノストラダムスの「諸世紀」は実は予言書ではない、ただ当時の世相を皮肉った詩集なのだ、という説も結構有力です。またたとえ予言書だったとしても、曖昧な詩を無数に用意しておけば、ことが起こった後でどれかをこじつけることもできる、とも言われています。
 おそらく、このどちらかが真実なのでしょう。
 ノストラダムスの真意はともかく、この超有名な予言は、私たちにとってはいかなる意味を持っていたのでしょうか? 皆さんはどのような「1999年」を思い描いておられたでしょうか?

 私の場合は、「1999年かあ。ええと、〇〇歳だから、ちょうど働き盛りで、子供の一人ぐらいはいるかしらん?」などと、割と呑気に考えてましたねえ。
 いざ1999年になってみると、なんで未だに後輩もほとんどいないぺいぺいで(会社が新入社員とらないんだもん)、おまけに未だ独りもんなんだぁ!
 …………んなこたぁおいといて。

「1999年に滅亡するんだったら、未来のことなんかどうでもいいや」という若者も多かったという話も聞きます。
 でもねえ。すっごく不思議なのは、そう言う人たちはどうして当然のごとく「当たる」と考えていたのでしょうか。「当たらないかも知れない」とは思わなかったのでしょうか。「当たってほしい」あるいは「ほしくない」という考え方なら、まだ分かります。だけど、なぜ「当たる」「当たらない」を飛び越して「1999年滅亡」だけまるで既定の事実のように考えたのか、私にはさっぱり分かりません。
 それだけノストラダムスの予言が有名になりすぎたからだ、と言う意見があるかもしれません。したがって、終末予言なんて百害あって一利なし、と全面否定する向きも確かにあります。おまけに、1999年の「ハルマゲドン」を自分で演出しようとしたらしい某反社会的団体もありましたね。自分で演出したら、そんなもの予言でも何でもないのですが。
 確かに、単純に危機感をあおるだけの本や評論家が存在したことも、紛れもない事実です。また1998年の年末から時々ノストラダムスを取り上げたTV番組が放送されましたが、宇宙人だの火山噴火だの、どう見てもメチャクチャな主張をする人を登場させて笑いものにする番組には、(主張する人自身よりも、そういう人を登場させるTV局の姿勢に)呆れ果てました。
 しかし一方で、そんなものとは違ったメッセージを込めたものもありました。

 日本でのノストラダムス火付け役となったのは、五島勉氏の「ノストラダムスの大予言」シリーズだと言われています。私は5巻目ぐらいまで読みましたが、10巻ぐらいあったのでしょうか?
 最後の方は分かりませんが、私が読んだ範囲では「こういう予言がある」というだけにとどまらず、「こういう予言は当たらないようにしなければならない」という強いメッセージが込められていました。その解釈の是非はともかく、なんでもノストラダムスの記述には「別のものが現れれば、私の予言は無効になるだろう」と解釈できるものもあったそうです。その「別のもの」とはあるいは反戦思想や、環境保護や、市民運動などかもしれません。それにより「恐怖の大王」として挙げられた危機を回避できる、というわけです。
 氏の著作については、一方ではかねてよりその正確さ、出典、解釈などに対して様々な批判が見られるのも確かです。ノストラダムス以外の本ですが、私が見ても「?」と思う箇所も確かにありました。何より、1999年8月も過ぎ去った今、また違った意味で色々な批判が出るかも知れません。
 ですが、ノストラダムスを一つの材料として、戦争の危機、環境破壊、社会の退廃などに対して鋭い批判を行ったことだけは紛れもない事実です。現在、私が感じる戦争や環境破壊への怒りは、実に氏の著作が遠因の一つだといっても過言ではありません。

 誰の言葉か忘れましたが、「良い予言は当たり、悪い予言は外れるのが本当に良い予言だ」ということを聞いたことがあります。(まあもっとも、古代のイカサマ予言者はこれを悪用して、悪い予言が外れたらそれは「国王の対処が良かったからだ」なんて誤魔化したそうですが……)
 今、私たちは、予言が当たらなかった(予言の解釈が間違っていた)ととやかく言うのではなく、予言(やその解釈)に言われた危機が現実とならなかったことを喜ぶべきではないでしょうか。核戦争や環境破壊の危機は、予言の有無に関わらず厳として存在していたのですから。

 私たちがノストラダムスから学んだこと。まずは「予言を頭ごなしに信じるな」(当たり前ですが)ということであり、「悪い予言は回避すればよい(回避する事が出来る、回避する努力をすべきである)」ということではないでしょうか。

「何度いやァ分かるんだ。過去は変えられねえ、あきらめな。だがな……未来ならいくらでも変えられるんだ
   (手塚治虫「バンダー・ブック」(1978年),ブラックジャックの台詞)

 そして、たとえ予言の時期は過ぎ去っても、そこにある危機が消え去ったわけではないことを忘れてはならないでしょう。今一度「恐怖の大王」として挙げられたものを見てみますと、「恐怖の大王」としてふさわしかったかどうかはともかく、これから起こっても何の不思議もないものばかりです。
 ローマクラブの「成長の限界」(1972年)を持ち出すまでもなく、科学的「予言」は枚挙にいとまがありません。世界人口はすでに60億を突破し、大気中の二酸化炭素量は増え続け、オゾンホールは広がり……科学的に「予言」される21世紀は、あまり明るいものではないようです。
 しかし、「悪い予言は回避すればよい」。「未来ならいくらでも変えられる」のであります。
 21年前に放送された「バンダー・ブック」は、「今からでも遅かぁないんだぜ」というブラックジャックの言葉で終わっています。それからもう21年経ちましたが、今一度、この言葉を思い出すべき時かも知れません。
 さて、後編ではいよいよ1999年を舞台としたSFに注目してみましょう。

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