そして2001年

「いつ〜の間にやら21世紀
 思ってた未来と違うけど〜」

てなCMがテレビで流れていましたが、ほんと、いつの間にやら気がつけば21世紀。 そして2001年もあとわずかです。
 21世紀は未来の、そしてSFの代名詞でした。特にその最初の年、2001年といえば、これはもう「2001年宇宙の旅」が真っ先に思い浮かべられるでしょう。 冒頭のCMでも、最初に手にとる本が 「2001年宇宙の旅」 ですよね。
 それにしてもあのCM、いろんな意味でなかなか 「泣かせる」 CMです。 さすがに宇宙飛行士とは思わなかったけど、いろいろなりたかったものになれませんでしたからね〜。
 しかしですな、あの登場人物、たしかCM中の設定では課長ですよね? あの人何歳ぐらいだろう? こちとらこの歳で、未だにぺいぺいの下っ端でい! だから、あの替え歌は好きなんだけど 「悪〜くはないさ」 という箇所だけはあまり共感できないんだなぁ(別に出世はしたくないけど、いつまでもいちばん下っ端ってのはなぁ)。


「2001年宇宙の旅」。SFの大御所アーサー・C・クラークの短編「前哨」をベースに、クラークとスタンリー・キューブリックが脚本を書き、1968年公開。当時は興行的には今一だったらしく、評価は二分。
「物語の素晴らしさと特撮の素晴らしさで話題を呼び、この年の多くの映画祭やコンテストでベスト1に選ばれ、翌年にはヒューゴー賞ドラマ部門も受賞した」 (横田順彌「SF事典」廣済堂,1977年) と持ち上げる本もあれば、「(クラークの原作の科学性が) 映像的に韜晦されてなし崩しにファンタジーの領域に追いやられ、いかような解釈も、それこそ不可知論的な世界への逃避としてとらえることさえ可能な、イメージ的処理に終始してしまっていた。(クラークの意図は) 映像の未熟さによって、ついに理解されることなく終わってしまったといえよう」(石原藤夫・金子隆一「SF・キイパーソンとキイブック」講談社,1986年)などとこき下ろす本もある。
 しまいには 「見る者の知的レベルを問われる難解な作品」 なんていう伝説と化したフシもあるようですが、黒住光・編「SF宇宙映画の逆襲」(アスペクト,1999年) は 「2001年は難解じゃない」 と断言しています。
 よーするにモノリスは異次元か何かの入り口で、そこでボーマンが新しい人類の姿へと進化する、そこだけ分かれば充分、「ストーリーが簡単すぎて、映画にはドラマがあってしかるべき、と思っていた観客を当惑させたのだ。 『2001年』 はテーマパークの体感マシーンのように、ただ体験すればよいと理解されるようになってから、圧倒的な映像美の名作として不朽の地位を獲得した」のだそうな。
 ふーむ、つまり 「難解」 なのではなくて、解釈すべきものがそもそも存在しない、ということですかね。ちなみにクラークの著した小説版は、よくわからんあやふやな世界ではなくて科学的にしっかりした世界が描かれているようです。
 その後は映画化もされた「2010年」「2061年」「3001年」へと続いていきます。 「2010年」 は割と分かり易くて面白かったのですが、その後は何だか重厚さがなく、よく分からないノリで、結局印象に残ってないなあ……。


 さて、この 「2001年」 とちょうど同じ年、1968年8月16日の 「週刊朝日」 には小松左京「まぼろしの二十一世紀」というショートショートが発表されています(集英社文庫「まぼろしの二十一世紀」1979年に収録)。 ここでは世紀の変わり目に向けて 「偉大なる世紀」 20世紀を振り返り、「黄金の世紀」 21世紀を迎える世界的なお祭り騒ぎが繰り広げられ、大晦日には月面のテレビ局から宇宙ステーションで世界中継までされるのですが、その世紀の変わり目の瞬間………というもの。何が起こるかはタイトルからご想像ください(笑)。
 それから同書に収録されている「ひきつぎ」(1966年11月26日 「週刊F6セブン」 掲載) は、21世紀に変わる瞬間、あの有名な20世紀フォックスの看板が……というショートショート。現実の世紀末は問題だらけでしたが、こちらの作品の中では様々な社会的問題が解決され、すばらしい21世紀を迎えんとしている……しかしこれは現実なのか? という、不思議でとっても切ない内容です。
 そういえば現実の20世紀フォックスはどうするのかな。二十世紀梨の後継品種はどうなるのかな(笑)

「まぼろしの二十一世紀」 同様、手塚治虫「未来人カオス」でも、20世紀から21世紀へと変わる時、世界中でお祭り騒ぎが繰り広げられます (ただし、「一九九九年七の月……(後編)」で触れましたように1999年の終わり、ということになっていましたが)。
 こうした作品を見慣れていたので、その昔は私も、21世紀突入の瞬間には世界中がお祭り騒ぎをするもんだ、と思ってましたもんねえ。 それに比べて、現実の瞬間は何とつまらなかったことか。 いやあ、現実って……って、んなこたあおいといて。


 現実の21世紀が始まった年、ご存知のように9月11日を境に 「世界が変わった」 と叫ばれています。 世紀の始まりにあまりにも強烈で、深刻な影響を与えた大事件でした。 これが後世、21世紀を象徴する事件だった、と言われるようなことにだけはなってほしくないものですが……。
 「機動警察パトレイバー2 The Movie」(1993年) では、2002年に横浜ベイブリッジ爆破というとんでもないテロ事件が発生します。 このあたり、まさにあの同時多発テロを彷彿とさせます。
 しかもこの映画、冒頭では1999年に東南アジア某国 (どうみてもカンボジア) で 「UN(国連)」 印のPKO派遣日本レイバーが攻撃を受けたり、「戦争を偽装したテロ」「演出された戦争」「不正義の平和と正義の戦争」、こんな言葉が飛び交うあたり、レイバーに代表される技術的な面はともかく、時代の雰囲気としてはなかなか予言的だったかもしれません。
 あの映画でいちばん印象に残ってるのは後藤隊長のセリフ。
「戦線を遠ざかるにつれて、楽観が現実にとって変わる。そして最高意志決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない」
会社で何度この言葉を思い出したことか。21世紀になっても変わりませんねぇ。だから 「悪〜くはないさ」 とは歌いたくないのよねぇ。
 余談ですが、この映画ではお巡りさんが運転中に携帯電話をかけてます(笑)


 一方、同じ2002年、手塚治虫の「マリンエクスプレス」(1979年) では、ロサンゼルスからマルケサス、サモア、ポナペ島を経て、東京までの2万5000キロの海底を40時間、時速900キロで走破する日米共同開発の海底列車マリンエクスプレスが開通。
 そして翌2003年はご存知のように、鉄腕アトムが誕生する年です。
 これらの作品を見るに、手塚治虫先生は明るい未来、明るい技術社会だけを見つめていたのでしょうか?
 否。マリンエクスプレスの生みの親、ナーゼンコップ博士は作中でこう語っています。
「もし海底鉄道などひかれれば、島々は開拓されて観光地になり、公害は増え、風俗は毒され、海底資源も荒らされて……(中略) たった一つ残された海の自然が、そして島々の文化が、滅んでいくだろう。 この事業は、成功させてはならん」
 現代人は環境破壊という20世紀の巨大な負の遺産を21世紀に持ち越しました。環境問題もまた、これからが正念場の大きな課題と言えるでしょう。


 実のところ、様々な問題はSFではるか以前から取り上げられ、現実社会でも何年も前から指摘され、叫ばれ続けたことです。 その割には世の中、2001年の割には進歩してないなぁ、というのも実感されますよね。
 あの「ドラえもん」でも、のび太がタイムマシンで未来の自分へ会いに行く回がありました。作品の発表年代を考えると、その未来とはまさに今我々がこうしている現代ということになります。 ドラえもんの中で描かれた未来の街に比べれば、ほとんど変わってませんね(笑)。
 しかし一方、「2001年」 の続編である「2010年」では米ソ対立が織り込まれて作品に厚みをましていますが、そのソ連はもうありません。 「鉄腕アトム」ではアトムが電話を探していましたが、今なら携帯電話が文字通り掃いて捨てるほど溢れかえっています (困ったもんだ……)。 やっぱり変わったところは随分と変わったものです。


 小松左京「果しなき流れの果に」(1968年) では、主人公の恋人が主人公を待ちながら、1970年頃から2010年代まで、変わり行く近畿の姿を見つめる箇所があります。
 TVの世界中継が当たり前となり、八尾空港が第二大阪空港として大拡張され、国道26号線が十車線になり、ホバークラフトやエアカーが走り始め……
「しかし、かわらない所はかわらなかった」「人間の世の中は、そう十年や二十年で貧富の差が一挙になくなり、貧民窟や泥だらけの道や、犯罪やゴミだめがいっぺんに消えうせて、砂糖で作ったみたいな白い四角いビルばかりになるわけはないのは、当然だったが−」
 多奈川に原子力発電所が建設され、広域行政で 「近畿州」 が誕生し、彼女の教え子が日本の月探検隊の副隊長となり……。
 なかなか変わらない部分と、めまぐるしく変化していく部分とがあり、どちらが良い悪いではなく、どちらも共に混在しているのが現実の世界。
 2001年は確かに大きな節目であり、歴史に残るようなとんでもない出来事もありました。 その一方、我々の世界の何もかもがいっぺんに変わるわけでもありません。 これこそがもっとも現実的な現代であり、未来なのでしょう。
 21世紀がどんな世紀になるかは誰にも分かりません。 20世紀は良くも悪くも激動の世紀でした。 願わくば、新世紀は悲しみや苦しみの減少する方向へと大きく変化していくことを祈りたいものです。

2001.12.23