デイ・アフター・トゥモロー −アメリカ版「日本沈没」?
アメリカ海洋大気管理局に勤めるジャック・ホールは、急激な温暖化が気候バランスを崩し、やがては氷河期が世界を襲うことを推論して、地球温暖化会議で発表する。
だが副大統領は耳を貸さず、ぐずぐずしているうちに世界各地で異常気象が発生、予想外の速さで地球は氷河期へと突入しつつあった。
想像を絶する寒冷化の侵攻に対し、対策はもはやただひたすら南へ逃げるしか残されていなかった。
かくてアメリカ人は続々と南のメキシコへ脱出を開始する。
メキシコ政府は北から逃れてくる人々のあまりの多さに国境を封鎖するが、アメリカ政府は政治的取引でもって避難を認めさせる。
そこはやっぱりアメリカやな〜、とは思うが、これまで難民を受け入れる側にあったアメリカ人が、難民と化してリオ・グランデ河を渡る光景は、アメリカンにとってはなかなかショッキングな光景かもしれない。
そうか、なるほど。 かの 「日本沈没」 (小松左京,1973年) は失われゆく日本列島から人々が脱出していく物語だが、この
「デイ・アフター・トゥモロー」 はアメリカ人にとっての 「日本沈没」 なんだな。
(そういえば避難先との政治的取引や、宇宙から被災地を見る視点も 「日本沈没」 ですでに描かれていた。 「日本沈没」 ではアメリカの4人乗り有人軌道研究衛星が、西日本を襲った中央構造線大地震を目撃している。
まさに 「日本沈没」 は未だに古さを感じさせないSFと言えよう。
もしかして、この映画の関係者の誰かも 「日本沈没」 を知ってたりして ^^)
もっとも、この映画は全世界が大変動に見舞われるだけにより深刻とも言えるし、一方でそんな世界的大変動のはずなのに、アメリカ
「だけ」 の物語になってしまうのもなぁ、とも感じるのだが……。
大変動が始まった時、ジャックの息子サムはニューヨークにいた。
ニューヨークは大津波に襲われ、続く寒冷化によって雪と氷に閉ざされてしまう。
ちなみにこの映画で描かれる寒冷化、時にヘリコプターの燃料が凍結してしまうほどの極低温にもなるようで、ハンパじゃない。
サムたちは公立図書館に避難し、そこで救援を待つことになった。
襲い来る寒さに対して彼らは火をおこして堪え忍ぶわけだが……図書館なだけに燃えるものはいっぱいあるんだけど、本好きとしては辛いよなぁ。
一方で、一緒に避難した人たちの中には 「本も燃やすだけじゃない」
と怪我人の治療法を本で探したり、 「これだけは守りたい」
と人類最初の印刷本を抱える人もいたりする。
非常事態にはみんながわっと一つだけの方向に流れてしまいがちだが、そんな中でこういう視点を保てる人たちの存在にもほっとさせられる。
そうしたバランス感覚は賞賛できるのだが、後半はほとんど個人ドラマになって、大変動に見舞われた世界がどうなったかはイマイチはっきりしなかったですな。
* * *
何しろ異常気象がテーマなので、試写会か何かで気象予報士が見てツッコミどころを指摘するという
「イベント」 もあったそうな。 そのツッコミどころ、TVでちらっと紹介されてたけど、覚えとくべきだったなぁ。
一つだけ覚えてるのが、気流の関係でビル街ではあんな巨大竜巻は発生しない、んだそうです。
まぁそう言われても 「映画なんだし」 としか言いようがないけど、そうした部分を押さえた上で
(それでも映画のメッセージ性が薄れるわけではないので)
楽しむのもいいですな。 どこかにそのツッコミどころ紹介されてないかなぁ。
専門的な部分はともかく、ワタクシ的に気になったツッコミどころとしては。
まず大変動の予兆として、東京にばかでかい雹が降り注ぐシーンがある。
この映画の中でアメリカ以外に登場する数少ない外国の一つで、えらくまた優遇された気もするけど……しかし……
アメリカ映画に登場する日本って、どうしてどこも中華街みたいに見えるんでしょう!?
見間違いじゃなかったら、屋台がシャッター閉めてたようにも見えたし。
それにこのシーンに出てくる人は日本語しゃべってるけど、どうも所々イントネーションが不自然だし……。
外国人から見たら気にならないだろうけど、映画スタッフの中に日本人とかはいなかったんだろうか。
それから 「インデペンデンス・デイ」 をはじめ多くのアメリカ映画では、爆発の炎から人々が走って逃げていきます。
この映画では……津波や冷気から人々が走って逃げます! う〜む。
あ……そう言えば、その 「インデペンデンス・デイ」
も同じエメリッヒ監督じゃん。う〜ん……。
あ、そうそう。 「インデペンデンス・デイ」
といえば、本映画のパンフレットにこんな文章があった。
「純然たるSFだった 「インデペンデンス・デイ」
と異なり、 「デイ・アフター・トゥモロー」
は地球の現状に対する懸念を基に、予想されるシナリオを提出したものだ」
ちょっと待て! これを書いた人物はSFを相当バカにしてないか!?
このフザケタ文章のすぐ後には、 「ドラマを盛り上げるために、映画では氷河期の到来を早めてるのは確かだけど」 というプロデューサーの言葉が載っている。 「予想されるシナリオ」 をもとに 「ドラマを盛り上げるために」 大げさにしたりしたのであれば、それは立派なSFではないか。 「地球の現状に対する懸念」 を浮き彫りにするのはSFの得意とする内容の一つだが、それが科学的に正確であればSFではないとでも言いたいのだろうか?
(ならば気象予報士から突っこまれるような描写もやめてちょーだい)。
「インデペンデンス・デイ」 のようなSFの殻を被ったアメリカ万歳映画だけがSFだなどと思って頂きたくないものである。
誰だか知らないが、パンフレットにあんな偏見を書いた人物は反省して頂きたい。
本映画はワタクシ的に 「日本沈没」 を思い出させたが、北半球が氷に閉ざされて壊滅し、主人公たちが雪の中で奮闘する様は 「復活の日」 も連想させる。まぁ本作のほうは南半球が何とか生き残ってるようなので 「復活の日」 ほどではないだろうが……。
ラプソン博士が最期に同僚二人とスコッチを酌み交わすシーン。
「銀河英雄伝説」のビュコック提督に似ていなくもないが(笑)、滅びゆく世界を静かに眺めつつ、世界と運命をともにする様は、やはり 「復活の日」 のヘルシンキ大学・文明史担当のユージン・スミルノフ教授をも彷彿とさせる。
それにしても。
上記のようにアメリカ人はリオ・グランデ河を渡ってメキシコへと避難したが、我々日本人はどこにも逃げようがないですな、こりゃ。
そんな映画を、冷房の利きすぎた映画館 (いやほんと、いつも寒いんですよ、あの映画館は)
で見ると身も心も寒くなります(笑)
ラストシーンについて少々。 ある意味ネタばれかも知れないので、オッケーな方はドラッグして反転させてご覧下さい。
ラスト、サムたちは助かります。 やっぱりアメリカ映画はこうでないと。
もちろん誉めてるんですよ、マジで。
サムたちが救助された後、ふと外を見ると他のビルの屋上に何人もの人影がいるのが垣間見える。
そう、画面には登場しなかっただけで、彼らと同じようにこの苦難を乗り切った人たちが他にもいたのである。
ほんのワンカットだけだったので、念のため本屋で原作本をぱらぱらと見てみると
− やっぱり、映画とは別の描き方だけど、主人公たちの他にも多くの人たちが生き延びていたことを示す描写がラストにあった。
このシーン、映画でももう少し分かり易く時間をかけて描いてほしかったなぁ。
そんなに生き残れるような甘い自然現象じゃないだろう、と非難される向きもあるかもしれないが、そうならサムたちさえ助からなかったはず。
彼らが助かるなら、やはり他にも大勢助かっていてしかるべきではないだろうか。
よくあるように助かるのが主人公たちだけだと、
(製作者による) 選民思想みたいでどうも嫌なんだけど、主人公たちを特別扱いせず、特別な存在ではない大勢の中の一部と捉えることこそがリアリティにつながるのではないだろうか。
映画の後半は 「どうも個人レベルのドラマが長過ぎるなぁ」
と感じていたのだが、最後の屋上の人々のシーンで5点追加(笑)。
あの人々をもう少しはっきりと描いていたら、10点追加なんだけどなぁ。
* * *
さて。
すでに各所の作品紹介でも示されているように、本作品は地球温暖化による環境危機を描いている。
温暖化でどうして寒冷化? とも思うが、私の誤解でなければこういうことであろうか。
地球温暖化による極地の氷の溶解 → 淡水が大量に流れ込むことにより、極地の海水の塩分濃度が低下
→ 従来は比重が重いことにより海底へ沈み込んでいた海流が、塩分濃度低下による比重の低下で停止
→ 海流停止により、海流によって運ばれていた熱が運ばれなくなり、極地が寒冷化
→ 地球全体の熱収支が崩壊
これであってるのか、またあってるとして本当にこうなり得るのかは正直なところよく分からない。
この映画を見る少し前、別件で読み返していたある本に
「現在の地球温暖化説はウソ」 という趣旨の記事を見つけた。
この本の発行は1998年、いわゆるトンデモ本に近いタイプなのでやや眉唾ものだが、簡単に言えばこういうことらしい。
太陽から受け取るエネルギー量は人類が消費するエネルギー量をはるかに上回っており、人類の産業活動はほとんど影響を与えない、のだそうだ。
むしろ、人類の手の届かないところ − 例えば、太陽活動の変化によって地球が寒冷化することの方が恐ろしい……。
一方、本映画のパンフレットには金子隆一氏の 「温暖化の実相」 という解説が載せられている。 これによると、様々な最新の観測データによって、かつての地球温暖化を疑問視する意見は否定され、いまや温暖化そのものは間違いないらしい。
ところがここからが曲者で、温暖化は間違いないにしても、その原因が二酸化炭素かどうかは断定しきれていない
(容疑者であることには違いないが) のだそうである。
そしてもう一つの原因として考えられるのが、なんと太陽活動の活発化による温暖化だというのだ。
おいおい、眉唾ものの本と、途中経過はまるっきり違うのに、太陽活動の変化という点では似たような話になっちゃったよ。
予測される危機の原因が例えば二酸化炭素であれば、日常生活の改善をはじめいろいろ対策は考えられるであろう。
しかし太陽活動の影響となると、これはもうお手上げである。
「地球に優しい、か……だからといって、地球が人間に優しくしてくれるわけじゃない」
というのは先日読んだ 「まっすぐ天へ」 (的場健、協力:金子隆一……あ、ここにも金子氏の名が。最近よくお見かけするなぁ
^^) に見られるセリフである。
もちろん、いわゆる 「地球に優しい」 とされるあらゆる活動は、決して無駄ではない。
地球資源が有限であることに変わりはないし、環境破壊も地球全体に対しては小さな影響であったとしても、我々一人一人に対しては大きな影響を与える可能性は大きいのだから。
結局 「地球に優しい」 というのは 「人間
(あるいは現在生きている生き物) に優しい」
というのが本音には違いないだろうが、せっかく生まれてきた人類や現生の生き物たちが生き延びようとするのは、なんら恥じることではないだろう。
そして万一地球や太陽が人類を滅ぼそうとするなら、立ち向かう権利ぐらいはあるに違いない。
その方法は今のところ空想の域を出ないが、少なくとも全世界的な協調は必要となろう。
だからこそ。
しょうもないいがみ合いなどさっさとやめて、くだらない偏見に惑わされることなく、隣の人と、そして世界中のいろんな人々と一刻も早く手を取り合うべき時代にきているのではないだろうか。
2004.07.05