「日本沈没」 −経済的には確かに沈没しちゃったなぁ……

 「日本沈没」 − 1973年と今から30年近く前、小松左京によって書かれた、おそらくはストーリーを説明するまでもない、1970年代を代表するSF大作。 地殻変動によって2年足らずで日本列島が沈むという事態を前に、国民を海外へと脱出させるべく奮闘する組織、個人、そして全世界を精密に描ききったシミュレーション小説であり、また未だ「おとな民族」になりきれない日本人への優しい叱咤激励の書といえるかも知れません。
「上下巻合わせて400万部を売る大ベストセラーとなった同書は、TV、ラジオ、劇画、映画化され、日本中に 《沈没ブーム》 を巻き起こす。 メディアミックスを呼び込んだ、本邦初の 「情報小説」 といってもよいだろう」(解体全書第47回「小松左京」;「ダ・ヴィンチ」1998年3月号掲載)
 12月19日には全国東宝系で映画が封切りされ、シネマ・タイム〜レプリ・ギャラリーによれば、配給収入20億円という東宝正月映画としての新記録は、1992年12月の「ゴジラVSモスラ」まで破られなかったという。
 ところで、この映画版には竹内均教授のような有名な人も画面内に登場しています。 あまり自信はないが、どうも画面にちらと見えた一人が小松左京先生ご自身だったのではないかという気がしているのですが……。
 1974年、第27回日本推理作家協会賞受賞。 第5回星雲賞(SF年間最優秀作品賞)日本長編部門受賞。
 アメリカでも英訳されており、そのタイトルもズバリ「JAPAN SINKS」。 しかし「原作の三分の一ほどの抄訳で、そのアブリッジはあまり評価できない」(横田順彌「SF事典」廣済堂,1977年)という。
 1974年の10月6日からは、TBSでテレビドラマ版が放送開始。 翌年春まで、全26回。制作費は当時のTVドラマとしては空前の5億円、キャスティング費用だけで1億円もかけたそうな。
 さらに本作はさいとうプロによって劇画化もされています。 週間少年チャンピオンに連載され、1992年には講談社からハードカバー版で出版されてます(全3巻)。
 ところで主人公の小野寺は映画版では藤岡弘が演じ、この劇画ではちょっと角のとれたゴルゴ13(爆)のような顔に描かれています。 これ、どちらもやや「肉体派」的ないかついイメージですよね。 まあ確かに小野寺は潜水艇乗りだからそうかも知れないけど……でも私個人は小説を読んだ感じでは、小野寺は外見的にはもう少しほそっこいサラリーマン風の青年を想像してしまいます。 難しいもんだ……。


 「日本沈没」といえば、1998年に日本が沈没するとエドガー・ケーシーが予言したとか。 ある本によると、 「日本の大部分が沈む」 というのは英語の原文を見ると 「日本の分け前が失われる」 とも取れるそうです。 分け前が失われる? そう言えばその頃以降、日本は経済的に沈没しちゃいましたねえ。 その意味では当たったのかな?
 予言といえば、 「日本沈没」 には高速道路が傾いてしまうシーンがあります。 これは有名な逸話ですが、週間ポスト1995年2月3日号の対談記事によれば、 「この小説を発表した後、ある大学教授に呼ばれましてね。そこで 『キミは高架の建築基準を知らないのかね。高速道路が傾くわけないだろう』 と言われたんですよ」
 ところが阪神淡路大震災では、大丈夫なはずの高速道路も傾くどころか完全に横倒しになってしまったわけで、小松先生も 「SFより現実の方がはるかに上回ったわけです」 と述べておられます。


 私が小学生の5年か6年の頃、小学校の図書館に新書版 「日本沈没」 が置いてありました。 当時は 「小松左京」 という名もろくに知らず、「これが以前話題になってた本か」 と読み始めたのですが、専門的な部分についていけず挫折してしまった記憶があります。 高校生の頃に文庫版で読み、その時本当に面白いと感じました。
 小学生の頃は高度な科学的説明を前に挫折してしまいましたが、この作品のメインテーマは、そうした理屈の面ではないでしょう。 日本が沈没するという可能性はまずないでしょうが、科学的に 「絶対」 ありえないとは断言できません。 その、極めて小さいながらも0ではない可能性をもとに、その時日本は、世界はどう動くか、という社会的シミュレーションであり、そしてその極限的状況を通じて現実の日本を、日本人を、明瞭に浮き彫りにした作品であるといえるでしょう。
「私小説家は日本が絶対に沈没しないという常識のもとで、まさにその制約を梃子として、延々と続く日常の倦怠に想像力を集めることが出来る。 これに対して、科学は日常常識よりはいささか視野が広いため、あるいは日本が沈没するかもしれないという、一抹のかすかな可能性をSF作家に提供する。 彼はすばやくその可能性を捉え、しかし、どこまでも科学が許容する限界の範囲内で、その破滅がいかに起こり、人間がいかに反応するかを心に描くのである」(山崎正和;文春文庫版「日本沈没」解説)


 どんな小説でも、長短に関係なく作者がいちばん書きたかったところ、 「ここが書きたくてこれだけの話を書いてきたんだ!」 という箇所があると思います。 また読者の側でも、この部分こそがこの作品の核なんだ、と思う箇所があるでしょう。 作者と読者とでは一致しないかも知れませんが、人それぞれ異なっていても構わないでしょうし、また、それは一ヶ所とは限らないでしょう。
  山崎正和氏は文春文庫版解説の中で、沈みゆく日本から逃れ、シベリア鉄道に乗る主人公の傍らで、一人の少女が 「丹那婆」 の物語を語るシーンに対し、 「作者はただこの場面を描きたいがために、六百ページの大作を構想したのではないかと、邪推されるほどである」 と書いています。
 私が 「日本沈没」 の中でもっとも好きな箇所は、ラスト近く、沈みゆく日本の一角で、伏した渡老人が田所博士に話しかける言葉です。

「日本人はな……これから苦労するよ……。 (中略) いわばこれは、日本民族が、否応なしに大人にならなければならないチャンスかも知れん……。
 これからはな……帰る家を失った日本民族が、世界の中で、ほかの長年苦労した、海千山千の、あるいは蒙昧でなにもわからん民族と立ちあって……外の世界に呑み込まれてしまい、日本民族というものは、実質的になくなってしまうか……それもええと思うよ。
 それとも……未来へかけて、本当に、新しい意味での、明日の世界の、“おとな民族”に大きく育っていけるか……日本民族の血と、言葉や風俗や習慣は残っており、またどこかに小さな“国”ぐらいつくるじゃろうが……辛酸に打ちのめされて、過去の栄光にしがみついたり、わが身の不運を嘆いたり、世界の“冷たさ”に対する愚痴や呪詛ばかり次の世代にのこす、つまらん民族になりさがるか……これからが賭じゃな……。
 そう思ったら田所さん、惚れた女の最後をみとるのもええが……焼け落ちる家から逃れていった弟妹たちの将来をも、祝福してやんなされ」


 日本というもの (便宜的な組織に過ぎない国家ではなく、土地や自然や風土などをひっくるめた日本そのもの) を純粋な気持ちで愛した田所博士と、日本から少しだけ離れたところから父親のように優しく見てきた渡老人との会話。 最後の一文にある 「惚れた女」 とは博士の愛した日本そのもの (何度も言うけど 「国家」 ではない) を指し、「弟妹たち」 とは日本から脱出していった人々のことです。 もう半分暗記してしまったこの部分には泣かされます。 この最後の一文こそが、私にとっての「日本沈没」の核です。


 この場面、映画版ではかなり変わっていましたが、さいとうプロの劇画ではほとんど原作通りに描かれているのは嬉しい点です。 ただ、すでに息も絶え絶えのご老人がこれほど長いセリフをしゃべるのも、不自然ではありますね。 小説では一向に不自然ではないのですが、常に絵とセットになるマンガ(劇画)だからちょっと目立ってしまうのかも知れません。
 さて、この劇画では、わずかな手荷物を持って避難していく人々や、地震や津波で死んでいく人々が 「これでもか」 と言わんばかりに描かれています。 具体的に視覚化されてしまうと、これはえげつない。
 スプラッターやホラーの嫌いな私としては、えげつなく視覚化しなくても済む小説というスタイルが、いちばん 「心に優しい」 表現形態と思うのですが……。 飛躍した私見ですが、 「えげつない視覚化」 と近年の 「心の荒廃」 はあながち無関係ではないのでは……とふと考えてしまいます。

 「優しい」 といえば、 「日本沈没」 では数多くのパニック小説や破滅小説で感じる不快感をほとんど感じません。なぜだろう、と長い間考え続けているのですが……
 多くのパニック小説や破滅小説は、殺しまくってそれで終わり。 一部の関係者が生き残るパターンもありますが、無意味に殺されていった人々がうかばれるわけもありません。 しまいには子供たちをむやみに殺し合わせる無意味な作品までもてはやされる有様。 そういった状況で愛だの友情だのを描こうとしたんだ、という反論もありますが、じゃあ愛や友情というものはそんな不愉快で非現実的荒唐無稽な設定を持ち出さなければ描けないものなのでしょうか?
 「日本沈没」 は単に自然災害を描いただけの小説ではなく、人々が生き残るための物語です。 それも、無意味に殺し合わせる作品のような、他人を犠牲にする生ではありません。 そして現に大勢の日本人が生き延び、生き延びた人々の未来が続いていく物語です。
 護衛艦でハワイへと向かう中田や幸長。 シベリアの列車の中に横たわる小野寺。 辛く苦しい未来であろうとも、確かに彼らの前には未来への道が続いています。 そしてラスト近くで語られる、八丈島の 「丹那婆」 の物語。 たった一人で生き残りながらも、子どもたちを増やしていった丹那婆の伝説は、まさしくこの作中の日本人の未来を象徴するものでしょう。
 妙な言い方ですが、多くの破滅小説は結局その 「破滅」 が主人公です。 しかし 「日本沈没」 のメインは、日本が沈むことそのものではない。 主人公はやはり人間であり、それも生きた人々、生き延びた人々が主人公です。


「執筆にとりかかった1964年当時は、オリンピックだ何だと世間は景気のいい話で浮かれていて、大東亜戦争肯定論なんてものまで飛び出し、もういいかげんにしてくれという気持ちでした。 で、今もし祖国をなくしたらどうするんだろうという疑問がわいてきたんです。 それも、侵略とか征服じゃなく、国家の基本的なハードである土地が消滅してしまったらどうなるんだろう、と。 また、そういった常識外の自然の激変に対して日本の近代システムはどこまで的確に機能するかも疑わしく思っていました」(ダ・ヴィンチ 1995年9月号)

この言葉で小松左京先生は 「疑わしく思っていました」 と書かれていますが、 「日本沈没」 の中では、組織も個人も公人も私人もそれぞれ精一杯努力し、そして大勢の日本人が生き延びていきます。
 さて、現実の日本はどうでしょうか?
 作品発表から約30年、世界情勢は大きく変わりましたが、日本の姿、日本人の本質は 「日本沈没」 当時とほとんど変わっていないような気がします。
 やはりどうしても己の殻 (つまり島国) に閉じこもってしまう国民性。 2002年1月、アフガニスタン復興支援会議でNGOの出席を拒否するという世界的な大恥をかきながら、そのこと自身よりも政治家の派閥力学で延々と果てしない泥仕合を繰り広げた政界 (そしてそういう人々に投票する国民!)。 この半世紀、日本はほとんど変わっていないと言えるでしょう。 現代日本は、いろんな意味で限界を感じつつあると言われています。
 「これからが賭けじゃな……」 という渡老人の言葉が思い出されます。 「焼け落ちる家から逃れていった弟妹たちの将来をも、祝福してやんなされ」 という最後のセリフ、この 「弟妹たち」 とは実は現代、あるいはこれからの日本人でもあるのではないでしょうか。

 → おまけ:「日本沈没」予言って?

2002.5.12