この胸いっぱいの愛を − その2 −
こちらのページには「この胸いっぱいの愛を」「黄泉がえり」双方のネタばれがあります。オッケーの方のみご覧下さい。
「この胸いっぱいの愛を」 がある意味 「黄泉がえり」
の裏返し、というのは映画を見終わって間もなく思いついたことなんですが、後からネットで見てみると、本作について
「未来からの 『黄泉がえり』」 という評?だかキャッチフレーズ?だかがやっぱりあるそうです。
たしかに、「黄泉がえり」 は過去に亡くなった人が現代によみがえる、それに対して
「この胸いっぱいの愛を」 は未来に亡くなった
(亡くなる?) 人が過去へよみがえるわけで、構造的には
「黄泉がえり」 の裏返しといえるでしょう。
「黄泉がえり」 では、よみがえった人たちは結局三週間で消えていきました。
それは 「過ぎ去った過去は変えられない」 という悲しいけど厳然たる事実、そして
「それでもなお、今を生きている人々は前を向いて生きていくしかない」
ということだったのだと思います。
「黄泉がえり」 はまさにそれがメインテーマの一つだったように感じます。
(確か一人だけ消えずに残った人がいたと思うが、あの人の消え残った理由、そうすべき
(作品としての) 位置付けがはっきりしなかったので、その点だけは不満でした。
が、その部分はここでは置いといて……)
「この胸いっぱいの愛を」 の場合も、未来から
「よみがえった」 人々が消えていく点で 「黄泉がえり」
と同じと言えば同じです。
しかし、「黄泉がえり」 はよみがえった過去の人たちではなく、
「今を生きている人々は前を向いて生きていくしかない」、あくまで現代の人々が中心の物語でした。
「この胸いっぱいの愛を」 はどうでしょうか?
本作の場合は、その時代を生きている人々
(つまり1986年の人々) よりは、あくまでよみがえった人々
(タイムスリップした4人) の方がメインと思われます。
それはいいのですが、そのメインたる4人は、結局死んでしまいます。
ここが、「黄泉がえり」 と本作との間でワタクシ的に感じた決定的な違いです。
それでもなお未来へ向けて生きていく人の物語と、未来を奪われた人の物語。 そう捉えると、どうしても前者の方に軍配を揚げたくなってしまいます。
「黄泉がえり」 が 「未来へ向けて生きていく人の物語」
と感じるのは、物語の視点がやはりよみがえった人たちよりも、その周りの人たちが中心であるように思われることも一因です。
よみがえった人たちは若干存在感が薄く、本当に本人なのかどうかも、実際のところ分からないし……。
ただしヒロイン役の橘葵については、彼女の視点も多く、物語の中心の一人には違いありません。
(うがった見方をすれば、彼女もまた 「よみがえり」
であったことが伏せられていたからこそ、他の生きている人と同等の存在感で描けたのかも知れませんが)
橘葵は 「黄泉がえり」 の中で唯一、「未来を奪われた人」
(作品幕開けの時点で亡くなっていた人は別にして)
ということになります。
「この胸いっぱいの愛を」 は未来を奪われた人たちの物語だと思いますが、一人だけ
「未来を与えられた」 (?) 人物がいます。すなわち青木和美は、元の歴史では病死するはずだったのが、鈴谷による過去の改変によって
「前を向いて生きていくしかない」 人物になったと言えるでしょう。
この二人に限っては、二作品の間で見事に裏返しの関係にあると言えるかも知れません。
すでに書いたように、主人公以外の三人にまつわるエピソードでは、過去はほとんど変えられていないと思われます。
しかし。 ただ一人、主人公の鈴谷だけは過去を変えまくっています。
だったら、せっかく過去を改変したのだから、未来だってもっと変わって良いのではないか。
(そもそも主人公の行動は明らかに未来を変えようとしており、実際変わってるんだから)。
もしも私だったら (っていつも大それたことを書いて申し訳ないですが
m(_ _)m)、鈴谷が過去を変えたことにより時間軸が変わり、飛行機事故が起こらなかったとか4人が助かったとか、そういう方向に持っていったでしょう。
そして、あのラストシーン。ネット上の感想をざっと見ても、まったく意味不明、というコメントをたくさん拝見しました。
映し出された一瞬は 「天国?」 と思ったものですが、2006年の登場人物も1986年の登場人物も、生者も死者も、いや、異なる時代の同一人物
(たぶん) さえもがそれぞれの年齢時の姿で? 一堂に会している!
この光景を一つだけ説明できそうなのは、
「楽屋オチ」 (用法正確かな??) でしょうか。
あるいは、舞台が終了して出演者全員がもう一度ステージに上がって観客に挨拶する、アレに近いものを感じます。
このラストの様子は本当に平和な、理想郷のような光景です。
一緒に観に行った人は 「つまりそういう願望を表した幻想」
ではないか、と言ってました。 また偶然同じ日にご覧になっておられた同志tokuさんも、ご自身の掲示板で
「こうあってほしい姿」 ではないかとおっしゃっていました。
なるほど、と頷くとともに、あのラストが作中から見ても
(作品世界内での) 現実ではない、とすれば……作品世界内での現実にはやはり救いはないわけで、いささか悲しい。
このラストの真意はまったく謎ですが、フィクションであっても幻想
(その作中から見ても) であるシーンよりは、フィクションだからこそ、その中で
「前を向いて生きていくしかない」 人たちの物語を期待したいと思います。
2005.10.27