この胸いっぱいの愛を 
− ある意味 「黄泉がえり」 の裏返しなわけですが −


 2006年1月16日。 出張のため飛行機で北九州へと向かった鈴谷比呂志は、子供時代を過ごした街を通りかかる。 ところがそこで見たのは、子供時代の鈴谷自身だった。
 その世界は20年前の1986年であり、同じ飛行機に搭乗していた人たちの中にもやはりタイムスリップした人がいた。 彼らはそれぞれ過去のこの街に思い残したことがあり、思いを遂げるために20年前の世界と向き合っていく。
 鈴谷は20年前の自分自身、ヒロと一緒に過ごすこととなった。 そしてそこには、20年後の2006年にはもういない、“和美姉ちゃん” もいた……。

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 原作は梶尾真治先生の中編小説 「クロノス・ジョウンターの伝説」 だそうですが、実はまだ未読。
 主人公以外の3人が過去と向き合い、思いを遂げるそれぞれのエピソードは分かりやすく、そして実に感動的です。
 また彼らが思いを遂げる過程で、過去をほとんど変えていないという点も見事。 時間ものSFの注目ポイントは過去を変えるか否か、タイムパラドックスをどう扱うか、という点ですが…… (変えない方が良い、という意味ではない。 変えたら変えたで、全体としての整合性がとれればオッケー)、彼らのエピソードを見て、ああ、この作品は過去を変えないで決着をつけていくところが見せ場だな、と思ったのですが……。
 ところが主人公の鈴谷に関わるエピソード、つまり本作の主軸となるべきストーリーでは、過去をやたらめったら変えまくってます。 ただしこの場合はそれも当然でしょう。 こういう状況だっら、誰でも変えようとすると思います。
 それは良いとして。
 やたらめったら感情の起伏が激しすぎて、どうもなぁ。 そりゃ現実に生死に関わる場面に直面すればそんなものかもしれないけど、そこまで描くことが感動を生むかどうかは別問題でしょう。
 クライマックスの一つ、和美にある決意をさせるために鈴谷がとった最後の手段も、うーん、それでうまく行くのか?? といった感じだし……。
 仮にこの作品 (「映画」 ではなく) が、過去にタイムスリップした4人の登場人物が、それぞれの過去と向き合う4つの短編からなる連作だったとすれば……鈴谷以外の3編は感動できるけど、鈴谷のエピソードだけが感情移入しきれなかったでしょう。
 で、この映画はその鈴谷のエピソードが中心なだけに、微妙に不満な結果でした。


 そして、20年前へとタイムスリップした4人が最後にはどうなったか……ここが最大の不満点。 そりゃ画面中にニュース映像を流せば、いちいち説明しなくとも 「ああ、そうだったのか」 と分かりやすいことは理解できます。 しかし 「結局そうしてしまうのかよ!」 と心の中で叫んでしまいましたがな。
 確かにこの駄文の副題にも書いたとおり、ある意味本作は 「黄泉がえり」 の裏返しとも言えるわけですが……この結末により、「黄泉がえり」 にあったような感動は、本作ではワタクシ的になくなってしまいました。
 さらに、ネット上でざっと見ても 「意味不明」 とみんなが言ってる、あの謎のラストシーン。 ほんと、何だったんでしょうね??

 もう少し詳しく書こうとするとどうしてもネタばれになりますので、以下は次ページで。 ネタばれオッケーな方のみ、お進み下さい。
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2005.10.27