夏のロケット − 夢を追い求める本物の大人たち −
舞台は20世紀末。 中学時代にバイキング火星着陸に感銘を受け、高校時代には天文部ロケット班でロケットを打ち上げようとした経験のある高野は、新聞記者として忙しい日々を送っていた。
ある日、東京・蒲田で過激派のミサイルらしきものが暴発する。
ところがその残骸には、高校時代に仲間が作り出したロケットの特徴が見て取れた。
昔の仲間を探す高野は、彼らが再びロケット打ち上げに挑もうとしていることを知る。
果たして過激派とは関係あるのか、そして高校時代の夢をさらに発展させようとする彼らの試みは実現するのか……
以前より複数の方に勧められながらなかなか機会がなかったのですが、2003年4月、偶然文庫本を発見して一気に読んでしまいました。
作者は川端裕人。 第15回サントリーミステリー大賞優秀作品賞受賞。
単行本は1998年、文藝春秋刊。
バイキング火星探査は1976年。 その頃中学生だったとして、作品発表の1998年頃が舞台とすると、主人公たちはおそらく三十代中頃から後半。
1996年の 「火星の生命発見?」 ニュースを作中で
「何年か前」 と言ってるので、ほぼ間違いないだろう。
どうだろう? 私もそうだけど、大抵の人はこの頃になるまでには、それぞれいろんな組織に組み敷かれてふうふう言ってる日々を過ごしてるんではないだろうか。
それが良いとか悪いとかはもちろんないんだけど、そうした日々に比べて、夢を本気で追い求める彼らの姿はとってもカッコいい。
もっとも、彼らとしても文字通り単純に 「夢」
を追い求めてのことだけではない。 現在のへの不満。
将来の自分への不安。 新たなビジネスチャンスの模索。 「みんなそれぞれに〈打算〉と〈目的〉があって集まっている」。
(新ロケット班の結成は) 「夢を追い求めてというよりも、むしろ高校を卒業してからの夢の挫折が出発点になっている」。
登場人物たちもなかなか曲者で、 「教授」
こと日高紀夫の姿勢はどこまで共感できるか、かなり微妙なものがある。
少なくとも 「夢」 という共通のものがないと、親友になれるかどうか自信がない。
主人公の高野はあちこちで (悪く言えば)
蚊帳の外に置かれたり逆に利用されたりと、少なくともヒーロータイプには程遠い。
だからこそ、身近に感じられる主人公たりうるのだろうけど。
ロケットというものが、常にミサイルなどの負の側面をも背負っていることも描かれ、単純に
「夢」 だけですますことができない点も押さえられている。
ロシア人のロケット・エンジニア、ユーリ・セミョーノフが高野に語る言葉は鋭く、そしてすがすがしい。
「そのヒダカという奴にはよく言っておいてくれ。
どんなことがあっても、ミサイルには手を出すなってね。
ロケット・エンジニアにとってそれはあまりにも簡単に手に入る禁断の実だ。
しかし、それをやったとたん、誰もが歴史の影の部分を背負い込んで、その後ずっとその影と共に生きることになってしまうんだ」
こうした、単純に 「夢」 ですますことのできない部分もまた、単なる
「夢物語」 ではない、本当の大人が求める夢の物語としては、むしろふさわしい。
ところで、夢を追いかける大人、というと世間的にはどうも
「大人になりきれない大人」 という偏見をもたれるようだ。
そういう評も見かけるし、作中でも 「まだ完全に大人になったわけではない……」
という言葉が見られる。
しかし、この登場人物たちは本当に 「大人になりきれない大人」
なのだろうか? それでは 「大人」 とはなんだろうか? 夢をあきらめることが大人なのだろうか?
あくまでも結果論に過ぎないが、彼らは大人になってから夢を実現することが出来た。
実現可能な夢だったのだ。
もちろん、彼らには本物の能力や運といった、我々には到底期待できないものを持っていたからこそ実現できたのは確かである。
「教授」 こと日高紀夫の卓越した理論。
清水剛太の実績に裏打ちされた技術。
北見祐一の商社マンならではのコーディネートや人脈。
そして氷川京介の音楽的才能に基づく財力。
このどれか一つでも欠けていたら、夢は実現できなかっただろう。
そして、これらは高校以降に確かなものとし、あるいは開花したものである。
正に、大人になったからこそかなえられた夢なのではないだろうか。
しかも。
彼らの夢は、打ち上げ花火のように一発だけ打ち上げて
「よかったよかった」 で終わってしまうような夢ではない。
さらにその後、一生をかけて挑む壮大なプロジェクトが提示されている。
それが実現可能なものかどうか、私にはさっぱり分からない。
しかし、普通は絶対無理だろうと思える個人ロケット打ち上げに挑んだ彼らのことである。
さらにその先の夢だって実現できそうな気になってくる。
持てるものを総動員して一生をかけて夢に挑む大人たち。
これもまた素晴らしい大人の姿の一つではないか。
夢を捨てることを、人は 「大人になる」 という。
しかし、実現可能な夢は捨てる必要はない。
実現可能かどうかを見極めること、可能ならばそれに向かって突き進むこと、
「夢を見定めること」 こそが 「大人になる」
ことではないだろうか。
先ほど、この夢の実現には日高、清水、北見、氷川の能力がどれも不可欠であったと記した。
ならば、主人公の高野は?
実務的な面では残念ながら重要性は低いかもしれない。
だが、こうした人物が主人公であることにより、読者としてももっとも高野を身近に感じることができるだろう。
しかも、なぜ彼らが火星を目指すことになったかといえば、バイキングの火星探査に感銘を受けた高野がきっかけとなっている。
作中の日高や清水は 「ロケットを作ることに熱中しながら、じゃあどうしてそうするのかと訊かれれば、『作りたいから作るのだ』としか答えない」。
「しかし、ぼくにはどうしても、ロケットは目的ではなくて手段にしか思えなかった。ロケットは人間が遠い星へ到達するための乗り物であり、それ自身が目的になるようなものではない。そう信じて、こう言った。
−いつか、火星に行けるロケットを作ろうよ。
それはいい、と案外簡単に全員がうなずいた」
理論や技術だけでは 「夢」 は完成しない。
高野もまた、必要不可欠な人材であった。
そしてまた、高野は将来のプロジェクトに対する自分自身の役割をラスト付近で見出す。
役割を見出すこと、これもまた立派な大人の姿の一つではないだろうか。
やはりこれは、本当の大人たちの物語ではないかと思える。
2003.05.07