千年女優
  − 虚実混濁のロケットはどこへ向かうのか? −

 かつて一世を風靡しながら、三十年前に突如映画界を去った大女優、藤原千代子。 彼女の足跡をたどる映像制作会社の立花源也とカメラマン井田恭二は、ひっそりと暮らす千代子の元を訪れる。 千代子の語る一代記は彼女の出演映画 − はるか昔の戦国時代から未来の宇宙にまでオーバーラップし、立花と井田をも巻き込んで、虚実混濁の光景が展開されていく……。
 冒頭、登場するロケットの発射シーン。 むろん現実の光景というわけではないが、本作品はこの場面から始まり、オープニングのタイトルとともにテープが巻き戻される。 そして本作品のラストは再びこの場面へと帰ってくる。 このテープの巻き戻しは、これから語られる往年の大女優の過去、そして過去を紐解いていくという本作品そのものを象徴しているかのようである。
 そしてオープニングの様々な光景もまた、後に物語の中で登場する様々なシーンとオーバーラップしていく。 飛行機とロケット。大型客船と満州へ旅立つ船。
 ところでカメラマンの井田が車の中で読んでいる新聞、見出しに 「阪神絶望」 と書いてあるのには笑いました。これを書いている今年 (2003年) は阪神優勝まで秒読みらしいんだけど、本作品の作られた2001年、または公開された2002年はどうだったかしらん? (いや、野球って全然知らないもので)

 本作は一般的に言ってSFではないし、正直、ロケッティア作品に加えるのは難しいところだと思う。
 しかし、ロケットは 「未来への象徴」であり、 「目標へと向かって突き進む強力な意志の具現化」 だと考える私にとり、この作品に登場するロケットもまたそのようなスタンスで描かれたものだと感じさせる。
 ただ、本作品のラストでそのロケットが何に向かって突き進んでいくのかを考えると、単純に肯定して良いものかどうかは疑問なのだが……。

 本作品には理論的というか常識的に考えると 「はぁ??」 となる場面が多く (てゆーかほとんどか?)、DVDの氷川竜介氏による解説だと 「だまし絵の楽しさ」 を追求したというが、 「楽しさ」 というより奇妙奇天烈な混沌に満ちている。
「今監督は、観客みんなが勝手に映画に対して思いこんでいる整列的な “ルール” を少しだけ乱してみることで、映画という芸術の本質を逆照射したのではないか」 などと大きなことをおっしゃっているが……。
 まずは千代子が映画界に入ったきっかけを語る場面で、その過去の場面の中に立花と井田が登場してしまうので、観ている者は思わず 「……え?」 となってしまう。 おまけによくよく見返してみると、少女時代の (すなわち過去の) 千代子が、(現在の) 立花に向かって話しているのだから 「はぁ?」 となってしまう。
 おそらく、聞き手の立花たちが千代子の語りに聞き入って自分たちもその中にいるような気になる、そんな感じを示した技巧なのだ……と一人で納得していると……
 雪の中を駆けていく少女時代の千代子を、電柱の陰から見つめる立花と井田。 そして井田はつぶやく。
「どんな取材なん?」
 そして駅まで駆けていく千代子を追いかけるのに、階段を駆け上がって叫ぶ言葉、
「しんどい取材やん!」
 さらには馬賊の襲撃を受けた時には
「うわー、ホンマモンやないかい!」
 井田のこれらのセリフからすると、千代子の話に聞き入っているといった次元ではなく、話の内容をその場で本当に実体験しているとしか思えないのである……!
「そんなアホな!」 と井田ならずとも叫んじゃいそうなんだけど……。

 そして、千代子と 「鍵の君」 との別れのシーン。
  立花 「俺はこのシーンを劇場で53回泣いたんだ」
  井田 「いっ!? いつから映画の話なん?」
 私も訊きたい。この場面だけでなく、本作品の多くのシーンがこんな調子である。
 この場面は千代子の過去の現実なのか、あるいは千代子が出演した映画のシーンなのか、はたまた千代子の過去を元にした映画なのか……。 最後のがいちばんありそうだが、だとすれば千代子は自分の過去を題材にした映画ばかりに出演していたことになるが、いくらなんでもそんなことはあるまい。
 ついには聞き手の立花源也自身が映画の登場人物の一人と化してしまうのだからびっくり仰天。
  立花 「姫! 長門守源衛門にございます!」
  井田 「いつからやねん!」
 私も言いたい。

 ところが。 千代子の出演映画らしき場面 (「長門守 討ち死にの巻」だそうな) の後、物語の中での現実 (……なんか妙な言い方ですが) が挿入される。 そこでは、現実の千代子が映画のセリフを叫び、立花源也がそれに合わせて芝居をうっているのだが……
 要するに、本当にあれやこれやの体験をしているというわけではなく (当たり前か? ^^)、とすると井田の見事なツッコミでさえ、ツッコミとはいえない。 すなわち、調子を合わせてツッコミ役をやることで彼もまた一緒にボケていることになってしまうのだ。
 う〜ん、このシーンはない方が良かったような気も……。

 映画のシーンで何度か登場する 「傷の男」、そして立花源也。言うまでもなく彼らは俳優ではなく、現実の映画の場面 (……これもなんか妙な感じですが) では別の俳優であったことは間違いない。 したがって繰り広げられる映画のシーンは、当然その映画に忠実なものではなく、かなり異なったものとなっているわけである。
 ほとんどの場面は出演映画と千代子の経験とのオーバーラップがメインになっているようだが、映画ではなく千代子の内面のみの場面も混在している。 例えば京都の新撰組を描いたらしい場面でもう一度登場する 「鍵の君」、どこかの惑星上にぽつんと置かれた絵……これらは恐らく、対応する千代子の過去の経験が存在しないはずである。
 千代子の過去の実体験、彼女の出演映画、彼女の思い描いた空想、そして本来はそこにはいないはずの立花と井田……これらが互いに干渉し合い、共鳴し合いながら繰り広げられる、この混沌とした世界はいったい何なのか?
 これらすべて、そう、本作品のほとんどすべての場面が、実は千代子の心の内の光景であるとすれば、納得がいく。 唐突な場面転換、立花源也の怪演、そして井田のツッコミでさえ、彼女の心の内で描き出された壮大な空想だとすれば、 「だまし絵」 とか 「整列的な “ルール” を少しだけ乱してみる」 (DVD解説より) といったムズカシイ表現を使わなくとも、常識的・理論的に納得しうる。

 現実と虚構が互いに干渉し合い、共鳴し合いながら繰り広げられる世界。 この表現を思いついた時、実は小松左京 「果てしなき流れの果に」 (1965) のクライマックスを思い出した。
 宇宙の高みへと上り詰めたアイが最後の瞬間に目撃するもの…… 「大宇宙がそれ自体膨れ、成長し、進化しながら、さらにそれ自体としての限界をこええず、のたうちながら、もう一つ別の宇宙 − その低次の断面が超空間において逆行宇宙として認識し得るもの − と媾合し、もだえながら、さらに第三の宇宙を − それは、この宇宙の限界をさらに超えた進化を可能とするような、別個の基本条件をそなえたものであろう − 生み出しつつあるさまを……」

「宇宙」 と 「逆行宇宙」 は本作品の 「現実」 と 「虚構」 に対応しないだろうか。そして宇宙と逆行宇宙との相互作用によって生み出される新たな第三の宇宙は、この 「千年女優」 という作品そのもの、あるいはラストで千代子がロケットで旅立つ先ではないだろうか。 戦国の世から宇宙時代にまでまたがる本作品の広がりも、 「果てしなき流れの果に」 で恐竜時代から45世紀のタウ・ケチまで駆けめぐる登場人物に重なりそうだ。 そして、 「果てしなき流れの果に」 でこの様子を見つめるアイは、本作品における立花と井田なのではないだろうか。
 ……ちょっと大げさすぎた?(笑)


 蛇足ではあるが、立花源也もまたある意味、若かりし頃から一人の人物をずっと追いかけていた 「もう一人の千代子」 ということができよう。 そして虚実混濁の物語の果て、場面はもう一度冒頭のロケット発射シーンへと回帰する。 だが、冒頭の場面と異なるのは千代子ではなくて、千代子を止めようとする人物である。
 立花源也にとり、一人の人物をずっと追い求めてきたプロセスは、ここで完結したのかもしれない。 しかし、千代子自身は未だ完結しない。 そしてロケットに乗り込んで、新たなステージへと飛び立っていく、わけだが……
 どこへ? 
 ロケットの旅立つ先を言ってしまうとネタばれになっちゃうのだが、今こうして生きているこの世界しかない我々としては、このロケットが飛び立つ先を安易に肯定していいものかどうか。 これは千代子だからこそ意味のある旅立ちなのだろう。
 千代子の最後のセリフは、ネット上でざっと見ても賛否両論のようだ。 ワタクシ的にもどうも本来の目的からずれちゃったような気がしたですね……。


 ところで。星野之宣先生をご存知の皆さん! 本作品って星野之宣先生の 「月夢」 「砂漠の女王」 を思い出しませんでした?(^^)

2003.08.10