タイムマシン 
− 現代の鏡としての未来 −

 タイムマシンといえば、SFファンなら誰でもH.G.ウェルズを挙げるでしょうし、2002年7月より公開された映画のコマーシャルを見た人も多いのではないでしょうか。
 この作品、小学生の頃だったと思いますが、図書館にジュブナイル向けの翻訳がおいてありました。 たしかに読んだのですが、どうも 「暗い未来」 といったイメージだけが残り、細かい内容はあまり記憶に残っていません。以後、ストーリーは曖昧なまま、ともかくSFの定番 「タイムマシン」 が初登場した作品、という知識だけが頭の中にありました。

 2002年7月20日、映画 「タイムマシン」 公開初日。 偶然休みが一緒だった友人と観てきました。

 舞台はウェルズの原作とほぼ同じ時代、1899年。 科学者アレクサンダー・ハーデゲンは婚約者エマを失い、以後4年間タイムマシンの実現に没頭する。 タイムマシンで 「あの時」 に戻り、エマを救うために。 しかし時間遡行は実現しても、結局エマを救うことはできなかった。
 運命を変えることはできないのか? 未来なら答えが得られるかもしれない、と考えたハーデゲンは、タイムマシンで未来へと向かう。 最初に訪れた時間は2030年。そこでニューヨーク市立図書館のホログラム司書と会話したりするが、答えを得られそうにない。 さらに未来へ向かおうとした彼だが、異常な衝撃に見舞われる。 わずか7年後の2037年、世界はとんでもない大災害に見舞われていたのだ。
 ハーデゲンは気を失い、制御を失ったマシンはどんどん未来へとすっ飛んでいく。 そしてたどり着いたのが、西暦換算で80万2071年という未来世界だった……。

 数多くのSFで描かれる時間旅行のシーンは抽象的なものが多いのですが、この映画はすごい。
 何となくレトロだけどカッコいいタイムマシン、この駆動部がどんどん回転していくにつれ、マシンの外側で流れる時間がどんどん早まってく様が克明に描かれています。 昇っては沈む太陽がどんどん早くなり、しまいには一本の線と化し、研究室の外側では植物が茂っては枯れることを繰り返し、やがて研究所が物置と化し、撤去されていき、さらに外側には新しい建物が建ち始め……そして高層ビルがどんどん成長し、上空をジェット機が横切り…… (この辺り、コマーシャルにもありましたね) ついには宇宙ステーションやスペースシャトルが飛び交っていく。 主人公の出発した1899年から2030年までのこの時間の流れの描写は感嘆しました。 その後、80万年後に至るまでには地形の変化まで描かれており、これらの場面はこの映画の最大の見所ですね。 これは一見の価値があります。
 「タイムマシン」 は1959年ジョージ・パル監督で一度映画化されており、実はこうした時間の流れの描写もすでに描きこまれていたそうです。 本作のこのシーンは「パル版へのオマージュ」 だとか。


 さて、80万年後の世界には高度な文明は見当たらず、そこでイーロイ族という種族と出会います。 さらにモーロック族という地下に適応した人類の末裔もおり、その2種族は文明とは程遠いおぞましい相互関係にありました。
 と、ここまでは遠い記憶にある小説に近いかな〜と思ってると、何とウーバー・モーロックという悪者(とも言い切れない?)の親玉らしき存在が登場。 彼はハーデゲンの記憶を探ることができ、遠い過去の文明のことも知っていて、タイムマシンの何たるかも理解しています。

「誰もが心の中にタイムマシンを持っている。 過去に戻るタイムマシンは“記憶”と呼び、未来に旅するタイムマシンを“夢”と呼ぶ」

 う〜ん、なかなか鋭い、考えさせられる言葉です。 しかしこれが、悪者(?)の親玉ウーバー・モーロックの言葉であるため、何か強烈に辛辣なものを感じてしまいます。
 ハーデゲンとウーバー・モーロックの対決。 そして、ハーデゲンは最後にどうするのか? 現代に帰ってくるのか? 未来にとどまるのか……?


 さて……この映画にある2030年の逸話は当然原作にはないでしょうし、パンフレットによれば婚約者エマの件も原作にはなし、そしてウーバー・モーロックもたぶん原作には登場してなかったんじゃないかなあ……というわけで、もう一度ウェルズの原作を読み返してみました。
 むむむ……原作は、タイムマシンを発明したマッド・サイエンティストがぴょんと80万年後を訪れ、帰ってきて友人の医師やジャーナリストたちに見てきた世界を語る、というのが大枠のあらすじ。
 イーロイ族とモーロック族の図式はほとんど同じですが、何だかより一層退化した感じ。 しかも、文明が進んで満ち足りたからこそ退化したのだ、と言いたげな雰囲気が垣間見えます。 無論今から100年も前、現代のような飽食の時代は想像すらできず、一部の資本家のみが肥え太っていた時代のことですから、仕方ないことかもしれません。 ただ、これは例えば戦争こそ文明の進歩に必要なのだ、などとほざくあの主張とどこか似たものを感じます (なお、登場人物が主張する、あるいは考えることと、作者自身の思想が必ずしもイコールではないことは留意しておいた方がいいかもしれません。 つまり、ウェルズ自身がそう考えていたとは限りませんので)。
 やはり原作にはウーバー・モーロックは登場しませんが、モーロックがあまり知能は高くないように見えるのにある程度の技術を有しているのは、ウーバー・モーロックが支配しているからだ、という映画版の設定は納得しやすいものですね。
 映画版 「タイムマシン」 は原作の基本的プロットを踏襲しつつも、まったく新しい別個のSFとみてよさそうです。


 数多くのSFが未来を描いていますが、その未来像は作品自身が作られたそれぞれの時代を反映していることは間違いないでしょう。 ウェルズの原作、1959年のジョージ・パルによる映画、そして2002年の本作、この3つの 「タイムマシン」 はそのことを如実に表しているように思われます。
 ウェルズの原作で、イーロイ族とモーロック族が何となく資本家と労働者に模せられているように感じるのは、やはり時代を表しているのでしょう。 貧富の格差が広がり、共産主義が登場し、階級闘争がささやかれる時代、その行き着く先の一つとして描かれた世界だったのでしょう。
 1959年の映画では、主人公は第一次世界大戦下の1917年、第二次世界大戦下の1940年、そして1966年の全面核戦争を経て80万年後の未来へたどり着きます。
 1959年といえば、言うまでもなく冷戦のまっただ中。 その数年後には、本当に核戦争寸前だったと伝えられるキューバ危機が起こります。 まさに、作品が作られた 「現代」 を映す鏡としての未来だったようです。
 そして2002年に製作された今回の映画には、いかなる 「現代」 が投影されているのでしょうか? 2037年、宇宙からやってくる大災厄は宇宙開発(広義には自然破壊)への警鐘かもしれません。 イーロイ族の、文明的ではないにせよ文化的には優れた、何とも不思議な集落は、西欧一極集中文明への疑問かも知れません。 あるいは、モーロック族に戦いを挑むハーデゲンの姿は、現代人を鼓舞しようとする何かがあるのでしょうか?
 部分的にはそれぞれその通りだと思いますが、どうも部分でしかないような気がします。 それでは、どのような意図が込められているのでしょうか?
 ないのかもしれません。 混沌とした未来。 明確な指標がない未来。 未来への不安。 それこそが、21世紀初頭の世界を象徴するようにも思われます。 原作にはない過去への時間遡行、これが盛り込まれたのも、あるいは古き良き時代を懐かしむ気持ちがあるのかもしれません。
 いやいや、これは無責任な深読みです。 ラスト付近で、「ボックス」(これがまたいい味なんですよね〜)が子どもたちにものごとを教えているシーンは、やはり未来に希望を見出そうとしているのだと思われます。 タイムマシンで見物できるものとしての未来ではなく、自分たちの手で作っていくものとしての未来に。


 エンディングについてもう少し……ネタばれの恐れがあるので、映画をご覧になる予定の方は、ご覧になった後の方がいいかも……

2002.07.23