4.
第三次ティアマト会戦が終結した時、生き残った第11艦隊の艦艇は3000隻に満たなかった。
一個艦隊の実に四分の三が失われるという一方的な敗北は、これまではあまり例がなかったのである。 無論、動員された五個艦隊のうち、第11艦隊を除く四個艦隊の損害は軽微であったが、要するに他の艦隊はほとんど参戦せず、第11艦隊が一人舞台を演じたわけである。
ビュコック、ウランフの巧みな連携によって帝国軍の猛攻をはね返した点は同盟軍の名誉をわずかに救ったものの、全体として同盟軍の不名誉は拭いようがなかった。
そして一部とはいえ、ホーランドを制止し得なかったビュコック、ウランフに対する批判もわずかながら存在する。
中には、むしろ積極的にホーランドの後に続くべきだったと主張する者もいた。
彼らは言う。 もしも第11艦隊の突撃に呼応して第5、第10艦隊が帝国艦隊の左右に回り込み、三艦隊が内と外から攻撃する陣形がかなっていたとすれば、一瞬にして勝敗は決し、同盟軍圧勝に終わっただろう。
だが、そのようにして三艦隊が前進した隙に、帝国艦隊が一部でも同盟軍を突破することになっていたら……?
そこには即座に阻む者のいない同盟領が広がることになる。
それを防ぐためにこそ、第二陣の二個艦隊が布陣するはずだったのだ。
これが叶わなかったのは決して前線指揮官の責任ではない。この点を突かれると、ビュコックやウランフを批判しようとする連中も沈黙せざるを得なかった。
こうした責任が追及されることを忌避した国防委員会により、敗戦の責任は結局ホーランド一人が背負うこととなる。
しかしやはり、第11艦隊で生き残った者の中でも高級士官は、事実上責任を負わされる形で閑職や辺境へとまわされていった。
第三次ティアマト会戦戦没者慰霊式典の様子は、ホリタのいるラムビスにも中継されていた。
当時、国防委員長に就任したばかりのヨブ・トリューニヒトが、扇動的な演説を繰り広げていた。よもや翌年も同じような
−否、その何倍にも及ぶような大敗北の果て、慰霊祭を執り行うなど予想もしていなかっただろう。
そしてその場で、ジェシカ・エドワーズの糾弾を受けるなどとは夢にも思っていなかったろう。
否、ジェシカ・エドワーズも、そしてほとんどの同盟市民も……それから後の歴史、運命など、想像の地平線の彼方であったに違いない。
翌796年。
第11艦隊旗艦 《ヘクトル》 に抜擢されることが内定していたナン技術大尉は、後方勤務の後に少佐として同じアキレウス級の
《レオニダス》 通信長に抜擢された。 第11艦隊時代からの知人は祝福したが、それから最初の出撃となったアスターテ会戦で悲報に接することとなる。
6月、首都近傍の治安維持で手堅く実績をあげていたルグランジュ中将が、新造戦艦
《レオニダスU》 とともに再建された第11艦隊司令に就任する。
なお、 《レオニダスU》 は781年より建造されつづけてきたアキレウス級の最後となる艦であり、アキレウス級の新造終了は、このクラスに関わった多くの人々に時代の変わり目を感じさせるものであった。
多くは後に 《トリグラフ》 級や 《ヒューベリオン》
級として知られるようになる新設計艦への期待を込めたものであったが、ここ一世紀では最高傑作といわれたアキレウス級の建造終了を、同盟の未来とだぶらせる者もわずかながらいたかもしれない。
ルグランジュ中将はホーランド時代からの将兵の
「まとめ役」 として、辺境からストークス准将を呼び寄せた。
この時、中将が二人の准将からストークスを選んだことにより、二人の運命は大きく隔たっていくこととなる。
その翌年、ストークスは少将として第11艦隊の副司令官となり、その運命はドーリア星域へとつながっていく。
一方のデッシュは准将のまま辺境を転々とし、やがてはルジアーナへ、そしてイゼルローンへと向かうこととなるのである……。
配属される指揮官によって運命が変わるのは、およそ人類が組織や階級というものを発明して以来変わらぬ命題である。
第三次ティアマト会戦のことを思い出すたびに、ホリタは考える。
第11艦隊の将兵にとり、その艦隊に配属されたのは、偶然と呼ぶにはあまりに物悲しい結果をもたらした。
もしもラスキーがウランフ提督の麾下だったならば、ミリアムが孤児になることはなかったであろう。
そして796年、帝国領進攻作戦において、ホリタ自身がそのウランフ提督の下で戦うこととなるのである。