4.


「……以上が入手しました 《メムノーン》 に関する資料の全てです」
 ウィリアム・アッテンボローは二ヶ月前に宇宙博物館で出会った女性に、数枚のディスクと書類を差し出した。
「最初は旧同盟や帝国の公式文書からあたったのですが、私の血縁の著作にもその名前が出てくるなんて、改めて調べ直すまで気付きませんでした」 そう言って苦笑しながら、一冊の本を手にする。 それは今でこそ歴史愛好家が手に取る程度だが、戦後間もなくの旧同盟側で大ベストセラーとなった 「革命戦争の回想」 であった。
「そうですか……やっぱりそのご本の著者と関係がおありだったんですね」
 初めて会った時、彼の姓を見て驚いた様子を思い出し、アッテンボローはかすかに苦笑した。
 やがて彼女は手にしていたリストの一枚を、そっとテーブルに戻した。
「ありがとうございました。 これで知りたかったことにだいぶ近づけたようです」
 彼女が手にしていたリストは、 《メムノーン》 が旗艦を務めた第一辺境艦隊の、宇宙暦798年当時の幹部名簿だった。
 名簿を入手した時から、アッテンボローの注意はその中の一つに向けられていた。
 その名は、彼女の姓と同じだったのである。


 今、 《メムノーン》 は衛星軌道上の宇宙博物館に係留されている。 自由惑星同盟最後の時代に宇宙を駆け巡った大型戦艦アキレウス級、最後の一隻。 いまや宇宙船の技術は格段の進歩を遂げ、そのスタイルは時代遅れの感を否めない。 しかし武骨とも言えるそのスタイルは、この艦と共にあった、不器用で心優しい人々の姿をも思い起こさせる。
 この、遥か彼方へと過ぎ去った激動の時代をとどめる 「証人」 の元には、過ぎ去りし過去に対する様々な想いを胸に、今も大勢の人々が訪れる。
 「もの」 は有限であり、人の一生もまた有限である。 だが、歴史は消え去らない − と言うが、その歴史を記す 「もの」、歴史を語り継いでいく人々が無ければ、歴史もまた伝わらない。 この 《メムノーン》 も所詮、本来は存在してはならない殺人兵器には違いない。 だが、その背後に横たわる歴史、関わり合った人々の歴史、その苦難の歴史の中で学んだことまでも否定することはできない。
 長い長い歴史の中で、人類が学びしこと − 誰が何といおうが、どれほど理屈をこねようが、戦争というものは絶対悪なのだ。 戦争もまた政策の一つだなどとしたり顔でぬかす為政者が後を絶たないのは歴史の真実だが、そのような者どもが真っ先に戦争からの保身を謀るのもまた、歴史の真実である。 戦争が世の中の発展に必要だなどとほざく文化人どももいつの時代にも蠢くものだが、そのような者どもは、短いながらも戦乱のない時代に花開いた素晴らしい文化がいくつもあったという歴史的事実には、目を向けようとしない。
 言うまでもなく、長きに渡った恒星間戦争はそれ以前の銀河帝国による圧政、そしてそれを生み出すに至った銀河連邦の退廃が原因である。 単純に戦争を否定しても、例えば圧政が続くとすれば、人類は救われない。 戦争も、圧政も、退廃も、同等に否定されなければ − どれか一つでも残れば他の諸悪も復活し、かくて歴史は繰り返す。
 無論そんなことは何千年も前から分かっている、それでも人類の本性として争いは避けられぬ、という向きもあろう。 しかしその一方、戦争をはじめとする諸悪を否定しようとする心もまた、同じ人類の本性である。 これまでは実現せずとも、次の世代、未来ならば実現できるかも知れない。 その気持ちこそが人類をここまで生きながらえさせたのではないか。 そのためにこそ、命をつなぎ、歴史を伝えていかなければならないのだろう。
 あの160年間に渡る戦乱の時代、犠牲者はどれほどの数にのぼっただろうか。 会戦ごとの死者・行方不明者数はかなり細かく記録されているものの、情報戦によるフィルターがかかっていることもあり、現実にはその正確性は定かではない。 トータルとしておおよその概数は示されているがやはり異説も多く、現代の歴史家でさえ特定し切れていないのだ。 それだけの人々がすべて天寿を全うしていたならば − どれほどのことを為し得たであろうか。 歴史はどれほど変わっていたであろうか。 この艦と関わり合った人々はどのような可能性を掴み、あるいは逃していったのだろうか。
 この艦を指揮した人々。
 この艦に乗り組んだ人々。
 この艦をその眼で見た人々。
 この艦に殺された人々。
 この艦に助けられた人々。
 無数の人々がこの艦と関わり、恐らく運命さえ変わっていった。 英雄の活躍した伝説の時代にあって、この艦とそれに関わった人々は、ほんのささやかな存在でしかなかったことは確かである。 だが彼らが知ることはなかったものの、《メムノーン》 がその後の歴史にほんのささやかな影響を与えたことは確かであり、それはこの艦に関わった人々がいたからこそであろう。
 聞くところによると、 《メムノーン》 には航行システムも再現し、再び宇宙へ飛翔させようという計画もあるという。 無論、戦争のためではない。 かつては辺境星域と呼ばれ、今やより拡大した人類勢力圏の重要な中継ポイントとしての地位を確立し、一部はバーラトのような民主主義を奉じる新興自治区や、フェザーンのような経済特区として発展しつつある広大な宙域を巡る 「動く記念艦」 とするのだそうだ。 さらにはイゼルローン回廊を通って、反対側にあるあの惑星メムノーンまでつなぐのだ、という気宇壮大な噂まである。
 もっとも、《イオン・ファゼカス》 ルート再現だのヤン・ウェンリー戦跡歴訪だのといった、やや軽薄なツアーを組むことで知られるフェザーン観光資本が絡んでいるため、いささか胡散臭い眼で見られがちであることも否めない。 《メムノーン》 の艦体も当然ながらすでに老朽化したものであり、結局は 《メムノーン》 を再現した新たな客船でも就航させることに落ち着くのではないか、と言われている。
 だが、たとえ宇宙を翔ることがなくても……今ここにこうしているだけでも、 《メムノーン》 の航海 − 時の流れを征く航海は続いている。 過去に生きた人々の記憶を運びつつ、現代を生きる人々とともに、未来へと向かって航海し続けているのだ。
 《メムノーン》 を見上げるこの巨大なホールには、見学の邪魔にならぬ程度のかすかな音量でBGMが流れている。 この場所を多くの人々が訪れるが、ベートーヴェンという作曲者の名や、あるいは第何番目の交響曲だったのか − 正確に答えられる人は少ない。 だが、誰もが一度は聞いたことのある馴染み深い曲であることは間違いない。
「友よ、拍手せよ。 喜劇は終わった」 − 死の間際にそう言い残したベートーヴェンの真意は定かではない。 だが、しかし −
 友よ、拍手せよ。 ベートーヴェンの 「劇」 は幕を閉じようとも、劇中で生み出された様々な作品は、後世へと伝えられている。
 そして、たとえ歴史に名を残す大作曲家のそれには及ばぬとしても、無数の人々の人生という名の劇は、今もなお繰り返し上演されている。 その過程で、先人の劇より学びし、あるいは受け継ぎしもの − 言葉を、歴史を、そして命を、後世へと伝えていく。 人の世の営みという壮大なる舞台は、個々人の人生を織り込みながら、続けられている。
 《メムノーン》 の征く旅はなお終わらない。 人々の営みも、そして歴史も。


 友よ、拍手せよ。 歴史は今も、途切れることなく続いている −。



戦艦メムノーン伝 完結