「日本沈没 第二部」 −「日本列島の沈没は、単なる前触れにすぎなかった……」−

 日本列島を襲った 「異変」 から25年。 脱出した日本人は世界中に散らばったが、日本政府は分散しながらもそれなりに機能を維持し、パプア・ニューギニアのように成功した入植地もあった。 その一方で、避難先によっては過酷な生活を強いられる日本人も大勢いる。 そこで政府は、技術力を背景に 「日本人の再編計画」 を立案する。
 ところが、日本が維持してきた技術力による成果は、日本沈没が 「単なる前触れ」 に過ぎず、未曾有の自然災害が世界を襲うことを予測する。 折りしも、急速に悪化する日中関係や北朝鮮問題。 日米同盟も絡んで、世界の危機を前に 「日本」 の姿勢が問われる……。

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 2006年7月7日。 ここ数ヶ月、たかだか1,2時間程度の会議のために往復5時間を新幹線で過ごすといううんざりする業務が、月に1回ほど続いていました。
 この日の朝も、また新幹線に乗るため新大阪駅に降り立ちました。 乗車時間まであと十数分。 特に目当てもなく、ぶらりと本屋さんに立ち寄ってみました。 そして見つけた、「日本沈没 第二部」。 即買って、往復5時間の間ずっと読みふけっておりました。
 ここ数年でこれほど有意義な新幹線の過ごし方はなかったですね(^^)


 「日本沈没」 第一部から33年。 待ち望まれた第二部は、ちょと驚いたことに小松左京先生と谷甲州先生の共著でした。 小松先生の後書きによると、 「私は七十歳を過ぎ、体力的にも自ら執筆することは不可能になっていた」 が、「プロジェクトチームを組んで取り組めば、完成させることができるかも知れない」 ということで、2003年11月から動き始めた、とのこと。
 ふーむ。 とすると 、 「虚無回廊」 もあるいは……。
 いくつかのエピソードが平行しながら進んでいくのですが、ある場面が途中で切り替わって、それきりどうなったのか描かれないまま (作中の) 時間がたってしまい、あれ? と思うことが時々ありました。 これは谷氏の特徴なのか、それとも共著ゆえやむを得ないことなんでしょうかね?


 第一部の “日本沈没” はほぼ日本の領土内のみで起こったため、 「それは全世界の 『人類』 にとって、残酷でいたましいが、しかし興奮をさそう大スペクタクルだった」 (文春文庫版 「日本沈没」 (下) 275ページ)。 「大部分の人々の心は、はるかな極東の一角に起こりつつある悲劇的なスペクタクルに対する第三者的な好奇心に満たされていた」 (同278ページ)。
 しかし 「日本列島の沈没は、単なる前触れにすぎなかった……」 (「日本沈没 第二部」 340ページ) というわけで、 「再編計画」 の見直しどころか、全世界の危機を前にしてどう動くべきか、という決断をも迫られます。
 「日本沈没」 第一部は 「未だ 『おとな民族』 になりきれない日本人への優しい叱咤激励の書」 ではないか、と拙文に書きましたが、第二部では竹島問題や北朝鮮問題、日中関係や日米同盟など、現実にも直面する国際問題が形を変えて次々出てくるだけに、未だ 『おとな外交』 のできない現実の日本に対して、より厳しい目が向けられているような気がします。
 おまけに、本作で予測される自然災害に対するアメリカの対応は、現実世界の地球温暖化問題に対するそれと、まったく同じ。
 それだけ、第一部が描かれた頃よりも地球環境は厳しい状況に来ている、ということかも知れません。 第一部では日本人への 「優しい叱咤激励」 だったものが、ここに来て地球人への 「もう待ったなし、さぁ、どうする?」 という警鐘となったようにも感じます。
 日本のアイデンティティを維持するためにも一種のナショナリズムを主張する首相と、日本人の特異さと世界中に散らばったという現在の境遇は、コスモポリタニズム(世界市民主義)こそふさわしいと訴える外相の対立は、むろん現実にそのまま対比はできませんが、いろいろと考えさせられます。


 しかし、その一方。
 本作を一気に読んだ感じとして、予測される日本人の運命は、一部を除いて意外とやや楽観的にも感じられます。 日本政府が存続し、高い技術力も維持していて、 「日本人の再編計画」 のために驚くべきものを計画したりして、なるほど、アレか! と意表を突かれました。
 第一部のどこかの解説にあったと思うのですが、小松先生自身が最初書きかけていた第二部では、脱出した日本人は流浪の過程で多くの同胞を失うこととなり、それに心を痛めて結局原稿を破棄してしまったのだとか。
 おそらくは……第一部を知っている読者の大半は、第二部と聞けばそうした悲惨なストーリーを想像するでしょう。 そうした予想を良い意味で裏切るべく、全体としてはやや楽観的なトーンになったのではないでしょうか。
 一方、当然ながら楽観的なことばかりじゃないことの象徴として、カザフスタンの過酷なエピソードが設定されたのかもしれません。 こちらは極めて過酷で、日本人が遭遇した様々な境遇の中でも、おそらくは特にひどいものになっています。 成功例のパプア・ニューギニアと対比させる意図かもしれませんが、いささか極端すぎてひいてしまいますね。 しかし全体のストーリーとはなかなか絡んでこないし、なんかあの二人を引き合わせることを目的に描かれたような気がしないでもなかったですが……。
 上でも書いた日本首相と外相の対立は、最終的には理想主義的な方向へ向くこととなります。 第二部のこうした楽観的ともとれるトーンは、現実はあーだこーだとすぐ悲観する人々からは批判されるかも知れません。 しかしそーゆー人たちも対案を持ってるわけじゃありませんし。 本作に描かれた日本人のたくましさや境遇、そして決断は、やはり現実への 「優しい叱咤激励」 なのかも知れません。 世界の未来、環境問題についても、まだ絶望するのは早い、と。


 ところで。
 拙文 「南極観測船の話」 にも書きましたように、私、砕氷艦 《しらせ》 が結構お気に入りなのですが。 この第二部には、何と 《しらせ》 も登場します。嬉しかったですね〜。 あ、そういえば原子力砕氷船 《知床》 は?(笑)


 終章のいちばん最後は、あれです、 「果しなき流れの果に」 のあれにつながります。 こういう舞台の 「飛躍」 はSFの醍醐味であり大好きですね。 ただここでの描き方は 「果しなき流れの果に」 を知らない読者にはちょっと唐突過ぎるだろうし、かつ文章量が少なくて、微妙に消化不良。 構成的にも、この部分だけで独立した一章にしても良いぐらいだと思うのですが。 ん〜、小松先生自身の文章じゃないので仕方ない、ということかも知れませんね……。
 詳しく書くと、本作と 「果しなき流れの果に」 双方のネタばれになりかねないので、エンディングはちょっと別ページで扱いたいと思います。

 → “竜の飛翔” − 「果しなき流れの果に」 との比較

2006.7.14